・・・長女は、思いやりの深い子であるから、末弟のこの失敗を救済すべく、噴き出したいのを我慢して、気を押し沈め、しずかに語った。「ただいまお話ございましたように、その老博士は、たいへん高邁のお志を持って居られます。高邁のお志には、いつも逆境がつ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・釜のない煙筒のない長い汽車を、支那苦力が幾百人となく寄ってたかって、ちょうど蟻が大きな獲物を運んでいくように、えっさらおっさら押していく。 夕日が画のように斜めにさし渡った。 さっきの下士があそこに乗っている。あの一段高い米の叺の積・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・「襟に商標が押してございまして、それがロシアの商店ので。」 おれは椅子から立ち上がった。「もういいもういい。そこで幾ら立て替えておいてくれたのかい。」「六百マルクでございます。秘密警察署の方は官吏でございますから、報酬は取り・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・一昨年来急に世界的に有名になってから新聞雑誌記者は勿論、画家彫刻家までが彼の門に押しよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義をすまして廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。宅へ帰ると世界中の学者や素人から色々の質問や註文の手・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 道路の側の崖のうえに、黝ずんだ松で押し包んだような新築の家がいたるところに、ちらほら見えた。塀や門構えは、関西特有の瀟洒なものばかりであった。「こちらへ行ってみましょう」桂三郎は暗い松原蔭の道へと入っていった。そしてそこにも、まだ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・茄玉子林檎バナナを手車に載せ、後から押してくるものもある。物売や車の通るところは、この別天地では目貫きの大通であるらしい。こういう処には、衝立のような板が立ててあって、さし向いの家の窓と窓とが、互に見えないようにしてある。 わたくしは路・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・彼の母はそれを見兼ねて枳の実を拾って来て其塞った鼻の孔へ押し込んでは僅かに呼吸の途をつけてやった。それは霜が木の葉を蹴落す冬のことであった。枳の木は竹藪の中に在った。黄ばんだ葉が蒼い冴えた空から力なさ相に竹の梢をたよってはらはらと散る。竹は・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・無限上に徹する大空を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏に圧し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。 夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍に坐りて、夜ごと日ごとのはたを織る。ある時は明るきはたを織り、ある時は暗きはた・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ベルを押し、請ぜられて応接間に入り、暫く待っていた。無論応接間の様子などユンケル氏のそれと似もつかぬのであるが、それでも自分には少しも気がつかなかった、全くユンケル氏の応接間に入っているつもりでいた。その中エスさんが二階から降りて来られた。・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・と、一人の男が一体どこから飛び出したのか、危く打つかりそうになるほどの近くに突っ立って、押し殺すような小さな声で呻くように云った。「ピー、カンカンか」 私はポカンとそこへつっ立っていた。私は余り出し抜けなので、その男の顔を穴のあく程・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫