・・・お前が神仏を念ずるにも、まず第一に拝むと云った、その言葉が嘘でなければ、言わずとも分るだろう。そのお方のいいつけなんだ。お蔦 (消ゆるがごとく崩折ええ、それじゃ、貴方の心でなく、別れろ、とおっしゃるのは、真砂町の先生の。(と茫然早瀬・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ひた赤く赤いばかりで光線の出ない太陽が今その半分を山に埋めかけた処、僕は民子が一心入日を拝むしおらしい姿が永く眼に残ってる。 二人が余念なく話をしながら帰ってくると、背戸口の四つ目垣の外にお増がぼんやり立って、こっちを見て居る。民子は小・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「それじゃ蛇王様は皹の事ばかり拝む神様かしら」「そりゃ神様だもの、拝めば何でも御利益があるさ」「なんでも手足がなおれば、足袋なり手袋なりこしらえて上げるんだそうよ、ねい省さん」「さっきの爺さんはたいへん御利益があるっていった・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 彼女たちはただ願掛けの文句を拝むだけでは、満足出来ない。信心には形式がいる。そこで、たとえば不動明王の前には井戸がある。この井戸の水を「洗心水」という。けがれた心を洗いまひょと、彼女たちは不動明王の尊像に水をかける。何十年来一日も欠か・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・お寺の中で仏像を拝むことと考えては違う。念仏の心が裏打ちしていれば、自由競争も、戦術も、おのずと相違してくるのである。この外側からはわからない内側の心持の世界というものが、限りない深さと広がりとのあるもので、それが信仰の世界である。そしてそ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・顔をあげて拝むような目付をしたその男の有様は、と見ると、体躯の割に頭の大きな、下顎の円く長い、何となく人の好さそうな人物。日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた其痛々敷い額の上には、たしかに落魄という烙印が押しあててあった。悲しい追憶の・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・婆さんの孫娘がかしこまって給仕する側には、マルも居て、主人の食う方を眺めたが、時々物欲しそうな声を出したり、拝むような真似をしたりした。 音沙汰の無い、どうしているか解らないような子息のことも、大塚さんの胸に浮んだ。大塚さんは全く子が無・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・大谷さん、何ももう言いません、拝むから、これっきり来ないで下さい、と私が申しましても、大谷さんは、闇でもうけているくせに人並の口をきくな、僕はなんでも知っているぜ、と下司な脅迫がましい事など言いまして、またすぐ次の晩に平気な顔してまいります・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・私は、三十円の為替を拝むにちがいない。 私は、服装のことで思い悩む。久留米絣にセルの袴が、私の理想である。かたぎの書生の服装が、私の家の人たちを、最も安心させるだろう。そうでなければ、ごくじみな背広姿がよい。色つきのワイシャツや赤いネク・・・ 太宰治 「花燭」
・・・来春は東京の実家へかえって初日を拝むつもりです。その折、お逢いできればと、いささか、たのしみにして居ります。良薬の苦味、おゆるし下さい。おそらくは貴方を理解できる唯一人の四十男、無二の小市民、高橋九拝。太宰治学兄。」 下旬・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫