・・・薄霧北の山の根に消えやらず、柿の実撒砂にかちりと音して宿夢拭うがごとくにさめたり。しばらくの別れを握手に告ぐる妻が鬢の後れ毛に風ゆらぎて蚊帳の裾ゆら/\と秋も早や立つめり。台所に杯盤の音、戸口に見送りの人声、はや出立たんと吸物の前にすわれば・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 夕方井戸水を汲んで頭を冷やして全身の汗を拭うと藤棚の下に初嵐の起るのを感じる。これは自分の最大のラキジュリーである。 夜は中庭の籐椅子に寝て星と雲の往来を眺めていると時々流星が飛ぶ。雲が急いだり、立止まったり、消えるかと思うとまた・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・その間に抽斗の草稿は一枚二枚と剥ぎ裂かれて、煙管の脂を拭う紙捻になったり、ランプの油壺やホヤを拭う反古紙になったりして、百枚ほどの草稿は今既に幾枚をも余さなくなった。風雨一過するごとに電燈の消えてしまう今の世に旧時代の行燈とランプとは、家に・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・ままに、文化的にも拭うことの出来ない人間的罪悪を犯した。私たち婦人は、悪よりも悪い無智というものを生活から追放しなければならない。沁々とそれを思わずにいられない。 戦争の犠牲 軍事的な日本の権力が満州を侵略し、・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・この后は久しい間病気でいられたのに、厨子王の守本尊を借りて拝むと、すぐに拭うように本復せられた。 師実は厨子王に還俗させて、自分で冠を加えた。同時に正氏が謫所へ、赦免状を持たせて、安否を問いに使いをやった。しかしこの使いが往ったとき、正・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・たとえば手が涙を拭うように動けば、面はすでに泣いているのである。さらにその上に「謡」の旋律による表現が加わり、それがことごとく面の表情になる。これほど自由自在に、また微妙に、心の陰影を現わし得る顔面は、自然の顔面には存しない。そうしてこの表・・・ 和辻哲郎 「面とペルソナ」
出典:青空文庫