・・・これにつれて、書物を読んでいたのも、筆を動かしていたのも、皆それぞれ挨拶をする。内蔵助もやはり、慇懃に会釈をした。ただその中で聊か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさます・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・若者は挨拶の言葉も得いわないような人で、唯黙ってうなずいてばかりいました。お婆様はようやくのことでその人の住っている所だけを聞き出すことが出来ました。若者は麦湯を飲みながら、妹の方を心配そうに見てお辞儀を二、三度して帰って行ってしまいました・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・もうその時の挨拶まで工夫してるのか。A まあさ。「とうとう飽きたね」と君に言うね。それは君に言うのだから可い。おれは其奴を自分には言いたくない。B 相不変厭な男だなあ、君は。A 厭な男さ。おれもそう思ってる。B 君は何日か―・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・と剣もほろろに挨拶をされて、悄然新聞社の門を出たことがある。 されば僕の作で世の中に出た一番最初のものは「冠弥左衛門」で、この次に探偵小説の「活人形」というのがあり、「聾の一心」というのがある。「聾の一心」は博文館の「春夏秋冬」という四・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・駅員らは何か話合うていたらしく、自分の切願に一顧をくれるものも無く、挨拶もせぬ。 いかがでしょうか、物の十分間もかかるまいと思いますから、是非お許しを願いたいですが、それにこのすぐ下は水が深くてとうてい牛を牽く事ができませんから、と自分・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・と、炉を隔てて僕と相対したお貞婆さんが改まって挨拶をした。「どうせ、丁寧に教えてあげる暇はないのだから、お礼を言われるまでのことはないのです」「この暑いのに、よう精が出ます、な、朝から晩まで勉強をなさって?」「そうやっていなけれ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・大抵のお客は挨拶にマゴマゴしてしまった。その頃であった、或る若い文人が椿岳を訪ねると、椿岳は開口一番「能く来なましたネエ」と。禅の造詣が相当に深いこの若い文人も椿岳の「能く来なましたネエ」には老禅匠の一喝よりもタジタジとなった。 椿岳の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・この挨拶に対して「否」と答えうる者は彼らのなかに一人もありませんでした。しかるにここに彼らのなかに一人の工兵士官がありました。彼の名をダルガスといいまして、フランス種のデンマーク人でありました。彼の祖先は有名なるユグノー党の一人でありまして・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・と愛相よく挨拶しながら、上り口でちょっと隣の部屋の寝床を覗いて、「まだ寝てるよ。銭占屋の兄さん、もう九時だよ。」「九時でも十時でも、俺あ時間に借りはねえ。」と寝床の中で言った。 すると、女は首を竦めて、ペロリと舌を出して私の顔を見た・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 女が来ると、「もう直き、汽車が来るよって、いまのうち挨拶させて貰い」「はい」 女はいきなりショールをとって、長ったらしい挨拶を私にした。終ると、男も同じように、糞丁寧な挨拶をした。 私はなにか夫婦の営みの根強さというも・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫