・・・私たちが挨拶すると、伯母はちょっと目をしばたたきながら言った。 六つ七つの時祖母につれられてきた時分と、庫裡の様子などほとんど変っていないように見えた。お彼岸に雪解けのわるい路を途中花屋に寄ったりして祖母につれられてきて、この部屋で痘痕・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・三里はとっくに歩いたと思っているのにいくらしてもおしまいにならなかった山道や、谿のなかに発電所が見えはじめ、しばらくすると谿の底を提灯が二つ三つ閑かな夜の挨拶を交しながらもつれて行くのが見え、私はそれがおおかた村の人が温泉へはいりにゆく灯で・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳を改めて御挨拶に罷り出でしが、書記官様と聞くよりなお一層敬い奉りぬ。 琴はやがて曲を終りて、静かに打ち語らう声のたしかならず聞ゆ。辰弥も今は相対う風色に見入りて、心は早やそこにあらず。折しも障子は・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・よけいなお世辞の空笑いできぬ代わり愛相よく茶もくんで出す、何を楽しみでかくも働くことかと問われそうで問う人もなく、感心な女とほめられそうで別に評判にも上らず、『いつもご精が出ます』くらいの定まり文句の挨拶をかけられ『どういたしまして』と軽く・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・近所の者は分けて呉れることゝ心待ちに待っていたが、四五日しても挨拶がない。買って来たのは玄米らしく、精米所へ搗きに出しているのが目につく。ある一人の女が婉曲に、自分もその村へ買い出しに行こうと思うが売って呉れるだろうかとS女にたずねてみた。・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・と、ぞんざいに挨拶して迎えた。ぞんざいというと非難するように聞えるが、そうではない、シネクネと身体にシナを付けて、語音に礼儀の潤いを持たせて、奥様らしく気取って挨拶するようなことはこの細君の大の不得手で、褒めて云えば真率なのである。それ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 俺だちは同志の挨拶をかわす方法を、この「せき」と「くさめ」と「屁」に持っているワケだ。だから、鼻の穴が微妙にムズ痒くなって、今くさめが出るのだなと分ると、それを実に大切にするんだ。 ――俺もしばらくして、せきとくさめに自分のスタイ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・を冒頭に置いての責道具ハテわけもない濡衣椀の白魚もむしって食うそれがし鰈たりとも骨湯は頂かぬと往時権現様得意の逃支度冗談ではござりませぬとその夜冬吉が金輪奈落の底尽きぬ腹立ちただいまと小露が座敷戻りの挨拶も長坂橋の張飛睨んだばかりの勢いに小・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 養子の兄はおげんに、「小山の家の衆がみんな裏口へ出て待受けていますで、汽車の窓から挨拶さっせるがいい」 こう言った頃は、おげんの住慣れた田舎町の石を載せた板屋根が窓の外に動いて見えた。もう小山の墓のあたりまで来た、もう桑畠の崖・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・しとやかに挨拶をする。自分はまごついて冠を解き捨てる。 婦人は微笑みながら、「まあ、この間から毎日毎日お待ち申していたんですよ」という。「こんな不自由な島ですから、ああはおっしゃってもとうとお出でくださらないのかもしれないと申し・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫