・・・それでも博士は、意に介しなさることなく、酔客ひとりひとりに、はは、おのぞみどおり、へへへへ、すみません、ほほほ、なぞと、それは複雑な笑い声を、若々しく笑いわけ、撒きちらして皆に挨拶いたし、いまは全く自信を恢復なされて、悠々とそのビヤホールを・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・たとえばマクドナルドとかフーヴァーとかいう人間が現われて短い挨拶をする。その短い場面でわれわれは彼らがいかにして、またいかに、英国労働内閣首相であり、北米合衆国大統領であるかを読み取ることができるような気がするのである。世界じゅうの重要不重・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・その時お目にかかって、弔みを云って下さったのが、先ず連隊長、大隊長、中隊長、小隊長と、こう皆さんが夫々叮嚀な御挨拶をなすって下さる。それで×××の△△連隊から河までが十八町、そこから河向一里のあいだのお見送りが、隊の規則になっておるんでござ・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・日本の旅館の不快なる事は毎朝毎晩番頭や内儀の挨拶、散歩の度々に女中の送迎、旅の寂しさを愛するものに取ってはこれ以上の煩累はあるまい。 何処へ行こうかと避暑の行先を思案している中、土用半には早くも秋風が立ち初める。蚊遣の烟になお更薄暗く思・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・婆さんの淀みなき口上が電話口で横浜の人の挨拶を聞くように聞える。 宜しければ上りましょうと婆さんがいう。余はすでに倫敦の塵と音を遥かの下界に残して五重の塔の天辺に独坐するような気分がしているのに耳の元で「上りましょう」という催促を受けた・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・途中で知人に挨拶されても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりする。かつて私は、長く住んでいた家の廻りを、塀に添うて何十回もぐるぐると廻り歩いたことがあった。方向観念の錯誤から、すぐ目の前にあ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・婦人の既に年頃に達したる者が、人に接して用談は扨置き、寒暖の挨拶さえ分明ならずして、低声グツ/\、人を困却せしむるは珍らしからず。殊に病気の時など医師に対して自から自身の容態を述ぶるの法を知らず、其尋問に答うるにも羞ずるが如く恐るゝが如くに・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・しかしそれは一昨日あなたに御挨拶をいたさずに逃げ出そうと決心いたしたのが子供らしいと申すのではございません。それはわたくしが最初あなたに手紙を差上げて御面会がいたしたい、おいでを願いたいと申したのが子供らしいと申すのでございます。 こう・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・谷に臨めるかたばかりの茶屋に腰掛くれば秋に枯れたる婆様の挨拶何となくものさびて面白く覚ゆ。見あぐれば千仞の谷間より木を負うて下り来る樵夫二人三人のそりのそりとものも得言わで汗を滴らすさまいと哀れなり。 樵夫二人だまつて霧をあらはるゝ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・居ないのでないもうこっちが三年生なのだが、あの挨拶を待ってそっと横眼で威張っている卑怯な上級生が居ないのだ。そこで何だか今まで頭をぶっつけた低い天井裏が無くなったような気もするけれどもまた支柱をみんな取ってしまった桜の木のような気もする。今・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫