・・・わずかそうしたことすら彼には習慣的な反対――崖からの瞰下景に起こったであろう一つの変化がちらと心を掠めるのであった。部屋が暗くなると夜気がことさら涼しくなった。崖路の闇もはっきりして来た。しかしそのなかには依然として何の人影も立ってはいなか・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・若草を薙いで来る風が、得ならぬ春の香を送って面を掠める。佳い心持になって、自分は暫時くじっとしていたが、突然、そうだ自分もチョークで画いて見よう、そうだという一念に打たれたので、そのまま飛び起き急いで宅に帰えり、父の許を得て、直ぐチョークを・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・半分と立たぬ間に余の右側を掠めるごとく過ぎ去ったのを見ると――蜜柑箱のようなものに白い巾をかけて、黒い着物をきた男が二人、棒を通して前後から担いで行くのである。おおかた葬式か焼場であろう。箱の中のは乳飲子に違いない。黒い男は互に言葉も交えず・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ぼんやりと、耳を掠める風聞。――然し、兎も角、自分達の口腹の慾は満たされて行くのだし……必要なら、誰かがするだろう。――眼を逸し、物懶に居隅に踞っていようとするのである。 幾百年の過去から、恐ろしい伝統、宿命を脱し切れずにいる、所謂為政・・・ 宮本百合子 「アワァビット」
・・・真夜中、おなかが空いて、茶の間へおりて来ると左手に丁度鏡があって、廊下からのぼんやりした光りで、その鈍く光る面をチラリと自分の横顔が掠める。それは自分の顔とわかっている。でも、その薄ぐらい中で覗きこんだら、覗きこむ自分の二つの眼も気味わるい・・・ 宮本百合子 「顔を語る」
・・・ダダも 面白かろう、然しそれとても、私には 折にふれ行きすぎ 心を掠める 一筋の町の景色だ。けれども、私がローファーなのは決して、淋しい想像で考えて下さらずとよい。私は楽しくあらゆるものを見、感じ滋液・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・まだ短い麦畑の霜どけにぬかるみながら、腹がけをした電信工夫が新しい電柱を立てようとしている作業が目を掠める。 窓外の景色がすこし活々して来るにつれ、赤いジャケツの娘の子は退屈がまして来るらしく益々父親の膝に体ごとまつわりついて、赤いほッ・・・ 宮本百合子 「東京へ近づく一時間」
・・・ なまめいたそらだきの末坐になみ居る若人の直衣の袖を掠めると乱れもしない鬢をきにするのも女房達が扇でかおをかくしながら目だけ半分のぞかせては、陰から陰へ、「マア御らんなさいませ、あの弟君を! マア何と云うネエ、……」と目引き袖ひ・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・通りよい櫛の歯とあたたかそうな湯上りの耳朶を早い春の風が掠める。……空気全体、若い、自由を愉しむ足並みで響いて居るようであった。今日は書き入れ日だ! プーウ、プカプカ、ドン、プーウ。活動写真館の音楽隊は、太鼓、クラリネットを物干しまで持ち出・・・ 宮本百合子 「町の展望」
・・・ほんの一とき市民の胸を掠めるぼんやりした哀愁の夜が、高架鉄橋のホイッスラー風な橋桁の間から迫って来た。 そういう黄昏、一つの池がある。ふちの青草に横わって池を眺めると、水の上に白樺の影が青く白く映っていた。花咲かぬ水蓮も浮いている。・・・ 宮本百合子 「わが五月」
出典:青空文庫