・・・云わば彼の心もちは強敵との試合を目前に控えた拳闘家の気組みと変りはない。しかしそれよりも忘れられないのはお嬢さんと顔を合せた途端に、何か常識を超越した、莫迦莫迦しいことをしはしないかと云う、妙に病的な不安である。昔、ジァン・リシュパンは通り・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・食事の時にも膳の側には、必ず犬が控えていた。夜はまた彼女の夜着の裾に、まろまろ寝ている犬を見るのが、文字通り毎夜の事だった。「その時分から私は、嫌だ嫌だと思っていましたよ。何しろ薄暗いランプの光に、あの白犬が御新造の寝顔をしげしげ見てい・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ クララはこの上控えてはいられなかった。椅子からすべり下りると敷石の上に身を投げ出して、思い存分泣いた。その小さい心臓は無上の歓喜のために破れようとした。思わず身をすり寄せて、素足のままのフランシスの爪先きに手を触れると、フランシスは静・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・もっともこのごろは、あまり夜更かしをすると、なおのこと腹がすくんで、少し控え気味にはしているがね。とも子 なんて讃美するの。ともの奴はおかめっ面のあばずれだって。瀬古 だが収入がなくっちゃおまえんちも暮らせないね。とも子 知れ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ その時打向うた卓子の上へ、女の童は、密と件の将棋盤を据えて、そのまま、陽炎の縺るるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、枝折戸を開いた侍女は、二人とも立花の背後に、しとやかに手を膝に垂れて差控えた。 立花は言葉をかけようと思っ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ この魔のような小母さんが、出口に控えているから、怪い可恐いものが顕われようとも、それが、小母さんのお夥間の気がするために、何となく心易くって、いつの間にか、小児の癖に、場所柄を、さして憚らないでいたのである。が、学校をなまけて、不思議・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・自分はしばらく牛を控えて後から来る人たちの様子を窺うた。それでも同情を持って来てくれた人たちであるから、案じたほどでなく、続いて来る様子に自分も安心して先頭を務めた。半数十頭を回向院の庭へ揃えた時はあたかも九時であった。負傷した人もできた。・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ところが社員は恐る恐る刺を通じて早速部屋に通され、粛々如として恭やしく控えてると、やがてチョコチョコと現われたは少くも口髯ぐらい生やしてる相当年配の紳士と思いの外なる極めて無邪気な紅顔の美少年で、「私が森です」と挨拶された時は読売記者は呆気・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・その頃の若い学士たちの馬鹿々々しい質問や楽屋落や内緒咄の剔抉きが後の『おぼえ帳』や『控え帳』の材料となったのだ。 何でもその時分だった。『帝国文学』を課題とした川柳をイクツも陳べた端書を続いて三枚も四枚もよこした事があった。端書だからツ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・とは此場合に於ては確かに終末の審判の懼るべきを指して言うたのである、慕うべくして又懼るべき来世を前に控えて聖書殊に新約聖書は書かれたのである、故に読む者も亦同じ希望と恐怖とを以て読まなければならない、然らざれば聖書は其意味を読者に通じないの・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
出典:青空文庫