・・・兵衛はまず供の仲間が、雨の夜路を照らしている提灯の紋に欺かれ、それから合羽に傘をかざした平太郎の姿に欺かれて、粗忽にもこの老人を甚太夫と誤って殺したのであった。 平太郎には当時十七歳の、求馬と云う嫡子があった。求馬は早速公の許を得て、江・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・と、大きく墨をなすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明りを揺かしている川波の空に、一反り反った一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄にぼやけた中には、目まぐるしく行き交う提灯ばかりが、もう鬼灯ほどの小ささに点々・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・香奠代りの紙包を持って帳場も来た。提灯という見慣れないものが小屋の中を出たり這入ったりした。仁右衛門夫婦の嗅ぎつけない石炭酸の香は二人を小屋から追出してしまった。二人は川森に付添われて西に廻った月の光の下にしょんぼり立った。 世話に来た・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・とにかく自分の現在の生活が都合よくはこびうるならば、ブルジョアのために、気焔も吐こうし、プロレタリアのために、提灯も持とうという種類の人である。そしてその人の芸術は、当代でいえば、その人をプティ・ブルジョアにでも仕上げてくれれば、それで目的・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・大きい鮟鱇が、腹の中へ、白張提灯鵜呑みにしたようにもあった。 こん畜生、こん畜生と、おら、じだんだを蹈んだもんだで、舵へついたかよ、と理右衛門爺さまがいわっしゃる。ええ、引からまって点れくさるだ、というたらな。よくねえな、一あれ、あれよ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ ――まさか、そんな事はあるまい、まだ十時だ―― が、こうした事に、もの馴れない、学芸部の了簡では、会場にさし向う、すぐ目前、紅提灯に景気幕か、時節がら、藤、つつじ。百合、撫子などの造花に、碧紫の電燈が燦然と輝いて――いらっしゃい―・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 妻のいうままに自分は提灯を照らして池を見た。池には竹垣をめぐらしてある。東の方の入口に木戸を作ってあるのが、いつかこわれてあけ放しになってる。ここからはいったものに違いない。せめてこの木戸でもあったらと切ない思いが胸にこみあげる。連日・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・風が強く吹き出し雨を含んだ空模様は、今にも降りそうである。提灯を車の上に差出して、予を載せようとする車屋を見ると、如何にも元気のない顔をして居る。下ふくれの青白い顔、年は二十五六か、健康なものとはどうしても見えない。予は深く憐れを催した。家・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 私は暗い路ばたに悄り佇んで、独り涙含んでいたが、ふと人通りの途絶えた向うから車の轍が聞えて、提灯の火が見えた。こちらへ近いてくるのを見ると、年の寄った一人の車夫が空俥を挽いている。私は人懐しさにいきなり声を懸けた。 先方は驚いて立・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 駅をでると、いきなり暗闇につつまれた。 提灯が物影から飛び出して来た。温泉へ来たのかという意味のことを訊かれたので、そうだと答えると、もういっぺんお辞儀をして、「お疲れさんで……」 温泉宿の客引きだった。頭髪が固そうに、胡・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫