・・・余が桜の杖に頤を支えて真正面を見ていると、遥かに対岸の往来を這い廻る霧の影は次第に濃くなって五階立の町続きの下からぜんぜんこの揺曳くものの裏に薄れ去って来る。しまいには遠き未来の世を眼前に引き出したるように窈然たる空の中にとりとめのつかぬ鳶・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 母の書を思い遣る時、自ずから、彼女の胸を満たす、無限に静穏な感謝が、鎮まった夜の空気に幽にも揺曳して、神の眠りに入った額へ、唇へ漂って行きそうな心持がした。 愛する者よ、我が愛するものよ、 斯う呼ぶ時、自分は彼という一つの明か・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・美くしい月光の揺曳のうちにも、光輝燦然たる太陽のうち、または木や草や、一本の苔にまでも宿っている彼女の守霊は、あらゆる時と場所との規則を超脱して、泣いて行く彼女を愛撫し、激昂に震える彼女を静かに、なだめるのである。 心が暗く、陰気に沈む・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・化しつつある世態とが、交互に鋭い角度で作用しあって、例えば、行動の価値と文学の本質及びその仕事に従うこととの間に、何か文学が社会的行動でないかのような、文学への献身に確信を失わせるような一種の雰囲気が揺曳しているのである。 日本の文学は・・・ 宮本百合子 「文学の流れ」
出典:青空文庫