・・・「ええ、泥坊を掴まえ損じまして、――」「ひどい目に遇ったですね。」「幸い怪我はせずにすみましたが、――」 大浦は苦笑を浮べたまま、自ら嘲るように話し続けた。「何、無理にも掴まえようと思えば、一人ぐらいは掴まえられたのです・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・いつぞやわたしが捉え損じた時にも、やはりこの紺の水干に、打出しの太刀を佩いて居りました。ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携えて居ります。さようでございますか? あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・九頭竜も堂脇も……今あけます、ちょっと待ってください……九頭竜も堂脇もたまらない俗物だが、政略上向かっ腹を立てて事をし損じないようにみんな誓え。一同 誓う。花田 泣ける奴は時々涙をこぼすようにしろ、いいか……じゃあけるぞ。沢・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・が、これは鎮守の神巫に似て、しかもなんば、という足どりで、少なからず威厳を損じた。 群集の思わんほども憚られて、腋の下に衝と冷き汗を覚えたのこそ、天人の五衰のはじめとも言おう。 気をかえて屹となって、もの忘れした後見に烈しくきっかけ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・今の自分はただただ自分を悔い、自分を痛め、自分を損じ苦しめるのが、いくらか自分を慰めるのである。今の自分には、哲学や宗教やはことごとく余裕のある人どもの慰み物としか思えない。自分もいままではどうかすると、哲学とか宗教とかいって、自分を欺き人・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・そんなことを話してから夏目さんは「近頃、主人公の威厳を損じた……」と言って笑われた。 前にも言った通り、私は夏目さんの近年の長篇を殆んど読んでいないといって宜しい。よし新聞や何かで断片的には読んでいるとしても、私はやはり初期の作が好きだ・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・「やっぱしな、工藤の兄さんも学問をし損じて頭を悪くしたか……」こう判断しているらしかった。でそうした巌丈な赭黒い顔した村の人たちから、無遠慮な疑いの眼光を投げかけられるたびに、耕吉は恐怖と圧迫とを感じた。新生活の妄想でふやけきっている頭の底・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・あるいは寛喜、貞永とつづいて飢饉が起こって百姓途上にたおれ、大風洪水が鎌倉地方に起こって人畜を損じ、奥州には隕石が雨のごとく落ち、美濃には盛夏に大雪降り、あるいは鎌倉の殿中に怪鳥集まるといった状況であった。日蓮は世相のただならぬことを感じた・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・やっぱりえゝ豚がよその痩せこつと変ったりすると自分が損じゃせに。」「そんな、しかし一寸した慾にとらわれていちゃ仕様がない。……それじゃ、初めっから争議なんどやらなきゃええ。」健二はひとりで憤慨する口吻になった。 親爺は、間を置いて、・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・「こんなところに、勝手に便所を建てたりして第一風景を損じて見ッともないじゃないか!」「そうですか。」「一寸、警察まで来て呉れ。」 米吉は、警察で、百円の罰金を云い渡された。そして帰ってきた。「百円の罰金がいるんなら、勝手・・・ 黒島伝治 「名勝地帯」
出典:青空文庫