・・・「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かの槍を受け損じてか、鎧の胴を二寸下りて、左の股に創を負う……」「深き創か」と女は片唾を呑んで、懸念の眼をみはる。「鞍に堪えぬほどにはあらず。夏の日の暮れがたきに暮れて、蒼き夕を草深き原のみ行・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・これに堪えずして手を出だせば、ついに双方の気配を損じ、国内に不和を生ずることあらん。また国のために害ありというべし。左にその一例をしめさん。 今の民権論者は、しきりに政府に向いて不平を訴うるが如くなるは何ぞや。政府は、果して論者と思想の・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ すなわち今の事態を維持して、門閥の妄想を払い、上士は下士に対して恰も格式りきみの長座を為さず、昔年のりきみは家を護り面目を保つの楯となり、今日のりきみは身を損じ愚弄を招くの媒たるを知り、早々にその座を切上げて不体裁の跡を収め、下士もま・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・相対し、日本と支那朝鮮と相接して、互に利害を異にするは勿論、日本国中において封建の時代に幕府を中央に戴て三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害栄辱を重んじ一毫の微も他に譲らずして、その競争の極は他を損じても自から利せんとしたるがごとき事実・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・ 「この玉はたいへん損じやすいという事です。けれども、また亡くなった鷲の大臣が持っていた時は、大噴火があって大臣が鳥の避難のために、あちこちさしずをして歩いている間に、この玉が山ほどある石に打たれたり、まっかな熔岩に流されたりしても、い・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・しかし、エンジンの工合が損じ、ドアは開かないまま、上野を出てしまった。 鶯谷へついたとき、人々はせき立って、窓から降りはじめた。男たちばかりが降りている。そのうちやっと、ドアが開いた。 出口に近づいて行ったら、反対の坐席の横の方・・・ 宮本百合子 「一刻」
・・・になった眼窩の様に、歯を損じた口のあたりは、ゲッソリ、すぼけて見える。 お節は、つぎものの手を止めて、影の薄い夫の姿を見入った。 地の見える様な頭にも、昔は、左から分けた厚い黒々とした髪があったし、顔も油が多く、柔い白さを持って居た・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・やがて私が、教員室から運動場へ出る段の前に据えられたピンポン台の前に立って、意地悪いほど熱中した眼をしながら、白い小球を、かん、かん、かん、かんと打ち返し、打ち損じているのを見るだろう。 ――思い出は多い。半開人のような自分を中心にして・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・ 応化橋の下で山岡大夫に出逢った母親と子供二人とは、女中姥竹が欠け損じた瓶子に湯をもらって帰るのを待ち受けて、大夫に連れられて宿を借りに往った。姥竹は不安らしい顔をしながらついて行った。大夫は街道を南へはいった松林の中の草の家に四人を留・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・それはどちらにしてもマルチン・ルテルの聖書のドイツ訳だって、当時は荘重を損じたように感じたのだから、ファウストを訳する人は、私のように不学無識でなくても、多少こんな意味の誚を受けずにはいられぬはずではあるまいか。私はルテルを以て自ら比するも・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
出典:青空文庫