・・・なるほど多加志の病室の外には姫百合や撫子が五六本、洗面器の水に浸されていた。病室の中の電燈の玉に風呂敷か何か懸っていたから、顔も見えないほど薄暗かった。そこに妻や妻の母は多加志を中に挟んだまま、帯を解かずに横になっていた。多加志は妻の母の腕・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・――が、どこかその顔立ちにも、痛々しい窶れが見えて、撫子を散らしためりんすの帯さえ、派手な紺絣の単衣の胸をせめそうな気がしたそうです。泰さんは娘の顔を見ると、麦藁帽子を脱ぎながら、「阿母さんは?」と尋ねました。すると娘は術なさそうな顔をして・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・……「愛想のなさよ。撫子も、百合も、あるけれど、活きた花を手折ろうより、この一折持っていきゃ。」 取らしょうと、笛の御手に持添えて、濃い紫の女扇を、袖すれにこそたまわりけれ。 片手なぞ、今は何するものぞ。「おんたまものの光は・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・百合、撫子などの造花に、碧紫の電燈が燦然と輝いて――いらっしゃい――受附でも出張っている事、と心得違いをしていたので。 どうやら、これだと、見た処、会が済んだあとのように思われる。 ――まさか、十時、まだ五分前だ―― 立っていて・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 白襟に消えもしそうに、深くさし入れた頤で幽に頷いたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が撓って、緞子の帯を胸高にすらりと立ったが、思うに違わず、品の可い、ちと寂しいが美しい、瞼に颯と色を染めた、薄の綿に撫子が咲く。 ト挨拶をしそうにして、・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ かつて、北越、倶利伽羅を汽車で通った時、峠の駅の屋根に、車のとどろくにも驚かず、雀の日光に浴しつつ、屋根を自在に、樋の宿に出入りするのを見て、谷に咲残った撫子にも、火牛の修羅の巷を忘れた。――古戦場を忘れたのが可いのではない。忘れさせ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・且つちり乱るる、山裾の草にほのめいた時は、向瀬の流れも、低い磧の撫子を越して、駒下駄に寄ったろう。…… 風が、どっと吹いて、蓮根市の土間は廂下りに五月闇のように暗くなった。一雨来よう。組合わせた五百羅漢の腕が動いて、二人を抱込みそう・・・ 泉鏡花 「古狢」
場所。 信州松本、村越の家人物。 村越欣弥 滝の白糸 撫子 高原七左衛門 おその、おりく撫子。円髷、前垂がけ、床の間の花籠に、黄の小菊と白菊の大・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・野生の萩や撫子の花も、心して歩けば松の茂った木蔭の笹藪の中にも折々見ることができる。茅葺の屋根はまだ随処に残っていて、住む人は井戸の水を汲んで米を磨ぎ物を洗っている。半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷の如き果樹が立・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・女郎花、撫子それから何というか紫のまるい花と白とエンジ色のまことにしゃれた花と。それがコップにさして机の上にあります。 私はこれから髪を洗います。そしてさっぱりして仕事をします。きのうはお暑かったでしょう。きょうはからりとしていて凌ぎよ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫