・・・讃美する必要は無いが、博文館が日本の雑誌界に大飛躍を試みて、従来半ば道楽仕事であった雑誌をビジネスとして立派に確立するを得せしめ、且雑誌の編纂及び寄書に対する報酬をも厚うして、夫までは殆んど道楽だった操觚をしてプロフェッショナルとしても亦存・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・同じ操觚に携わるものは涙なしには読む事が出来ない。ちょうどこの百七十七回の中途で文字がシドロモドロとなって何としても自ら書く事が出来なくなったという原稿は、現に早稲田大学の図書館に遺存してこの文豪の悲痛な消息を物語っておる。扇谷定正が水軍全・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・かつ在官者よりも自由であって、大抵操觚に長じていたから、矢野龍渓の『経国美談』、末広鉄腸の『雪中梅』、東海散士の『佳人之奇遇』を先駈として文芸の著述を競争し、一時は小説を著わさないものは文明政治家でないような観があった。一つは憲法発布が約束・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・孝助の忠やかなる読来れば我知らず或は笑い或は感じてほと/\真の事とも想われ仮作ものとは思わずかし是はた文の妙なるに因る歟然り寔に其の文の巧妙なるには因ると雖も彼の圓朝の叟の如きはもと文壇の人にあらねば操觚を学びし人とも覚えずしかるを尚よく斯・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・或人の話に現時操觚を業となすものにして、その草稿に日本紙を用うるは生田葵山子とわたしとの二人のみだという。亡友唖々子もまたかつて万年筆を手にしたことがなかった。 千朶山房の草稿もその晩年『明星』に寄せられたものを見るに無罫の半紙に毛筆を・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・以上の諸名家に次いで大正時代の市井狭斜の風俗を記録する操觚者の末に、たまたまわたくしの名が加えられたのは実に意外の光栄で、我事は既に終ったというような心持がする。 正宗谷崎二君がわたくしの文を批判する態度は頗寛大であって、ややもすれば称・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
出典:青空文庫