・・・と、呼吸をひいて答えた紫玉の、身動ぎに、帯がキと擦れて鳴ったほど、深く身に響いて聞いたのである。「癩坊主が、ねだり言を肯うて、千金の釵を棄てられた。その心操に感じて、些細ながら、礼心に密と内証の事を申す。貴女、雨乞をなさるが可い。――天・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・またそこの婢女が座蒲団を三人分持って来たので、おかしいとは思ったが、何しろ女房の手前もあることだから、そこはその儘冗談にまぎらして帰って来たが、その晩は少し遅くなったので、淋しい横町から、二人肩と肩と擦れ寄りながら、自分の家の前まで来て内へ・・・ 小山内薫 「因果」
・・・風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結えつけて戻って来たら、擦れとりましてな、これだけほどになっとった」 兄はその手つきをして見せた。姉の熱のグラフにしても、二時間おきほどの正確なものを造ろうとする兄だけあって、その話には兄らしい味が出ていて峻・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・三十前後の顔はそれよりも更けたるが、鋭き眼の中に言われぬ愛敬のあるを、客擦れたる婢の一人は見つけ出して口々に友の弄りものとなりぬ。辰弥は生得馴るるに早く、咄嗟の間に気の置かれぬお方様となれり。過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳を改めて・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ たいてい洋服で、それもスコッチの毛の摩れてなくなった鳶色の古背広、上にはおったインバネスも羊羹色に黄ばんで、右の手には犬の頭のすぐ取れる安ステッキをつき、柄にない海老茶色の風呂敷包みをかかえながら、左の手はポッケットに入れている。・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・道具も永く使い馴らして手擦れのしたものには何だか人間の魂がはいっているような気がするものであるが、この羅宇屋の道具にも実際一つ一つに「個性」があったようである。なんでも赤あかさびた鉄火鉢に炭火を入れてあって、それで煙管の脂を掃除する針金を焼・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・その高い襠で擦れた内股にひびが切れて、風呂に入るとこれにひどくしみて痛むのもつらかった。 今はどうか知らないが昔の田舎の風として来客に食物を無理強いに強いるのが礼の厚いものとなっていたから、雑煮でももう喰べられないといってもなかなかゆる・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・我々はもっとずっと、擦れてるから始末が悪い。と云ってあすこがつまらないんじゃない。かなり面白かった。けれどもその面白味はあの初菊という女の胴や手が蛇のように三味線につれて、ひなひなするから面白かったんで、人情の発現として泣く了簡は毛頭なかっ・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・動く度に舌の摩れ合う音でもあろう微かな声が出る。微かではあるが只一つの声ではない、漸く鼓膜に響く位の静かな音のうちに――無数の音が交っている。耳に落つる一の音が聴けば聴く程多くの音がかたまって出来上った様に明かに聞き取られる。盾の上に動く物・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ だから、早く云って見れば、文学と接触して摩れ摩れになって来るけれども、それが始めは文学に入らないで、先ず社会主義に入って来た。つまり文学趣味に激成されて社会主義になったのだ。で、社会主義ということは、実社会に対する態度をいうのだが、同・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
出典:青空文庫