骨董というのは元来支那の田舎言葉で、字はただその音を表わしているのみであるから、骨の字にも董の字にもかかわった義があるのではない。そこで、汨董と書かれることもあり、また古董と書かれることもある。字を仮りて音を伝えたまでであ・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・にせるが為めに、斬に処し若くば死を賜える者計うるに勝えぬではない歟、露国革命運動に関する記録を見よ、過去四十年間に此運動に参加せる為め、若くば其嫌疑の為めに刑死せる者数万人に及べるではない歟、若し夫れ支那に至っては、冤枉の死刑は、殆ど其五千・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・わたしの家の庭で見せたいものは、と言ったところで、ほんとに猫の額ほどしかないような狭いところに僅かの草木があるに過ぎないが、でもこの支那の蘭の花のさかりだけは見せたい。薫は、春咲く蘭に対して、秋蘭と呼んで見てもいいもので、かれが長い冬季の霜・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・而して林氏の説に序を逐うて答ふるも、一法なるべけれど、堯舜禹の事蹟に關する大體論を敍し、支那古傳説を批判せば、林氏に答ふるに於いて敢へて敬意を失することなからん。こゝには便宜上後者によつて私見を述べんとするもの也。 先、堯典に見るにその・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・ 英国でも、皇帝、皇后両陛下や、ロンドン市民から寄附をよこし、東洋艦隊や、カナダからの数せきの船は食糧を満さいして来ました。 支那では北京政府が二十万元を支出して送金して来た外、これまで米殻輸出を禁じていたのを、とくに日本のために、・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ 私は、阿佐ヶ谷のピノチオという支那料理店で酔っ払い、友人に向かってそう云ったのを記憶している。「青ヶ島大概記」が発表せられて間もなく、私が井伏さんのお宅へ遊びに行き、例によって将棋をさし、ふいと思い出したように井伏さんがおっしゃっ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・釜のない煙筒のない長い汽車を、支那苦力が幾百人となく寄ってたかって、ちょうど蟻が大きな獲物を運んでいくように、えっさらおっさら押していく。 夕日が画のように斜めにさし渡った。 さっきの下士があそこに乗っている。あの一段高い米の叺の積・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・鬼の棲家を過ぎて仙郷に入るような気がして昔の支那人の書いた夢のような物語を想い出すのである。シー・ピー・スクラインがパミールの岩山の奥に「幸福の谷」を発見した記事を読んだときにいわゆる武陵桃源の昔話も全くの空想ではないと思ったことであったが・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・父は唐宋の詩文を好み、早くから支那人と文墨の交を訂めておられたのである。 何如璋は、明治十年頃から久しい間東京に駐剳していた清国の公使であった。 葉松石は同じころ、最初の外国語学校教授に招聘せられた人で、一度帰国した後、再び来遊して・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・ある時は三韓また或時は支那という風に大分外国の文化にかぶれた時代もあるでしょうが、長い月日を前後ぶっ通しに計算して大体の上から一瞥して見るとまあ比較的内発的の開化で進んで来たと云えましょう。少なくとも鎖港排外の空気で二百年も麻酔したあげく突・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫