・・・ どろぼうは素直に草履を脱ぎ、雨戸の外にぽんと放擲した。私は、そのすきに心得顔して、ぱちんと電燈消してしまった。それは、大いに気をきかせたつもりだったのである。「さあ、電燈を消しました。これであなたも、充分、安心できるというものです・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・その夜かぎり、粋人の服装を、憤怒を以て放擲したのである。それからは、普通の服装をしているように努力した。けれども私の身長は五尺六寸五分であるから、街を普通に歩いていても、少し目立つらしいのである。大学の頃にも、私は普通の服装のつもりでいたの・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・ 回教徒が三十日もの間毎日十二時間の断食をして、そうして自分の用事などは放擲して礼拝三昧の陶酔的生活をする。こういう生活は少なくとも大多数の日本の都人士には到底了解のできない不思議な生活である。 ベナレスの聖地で難行苦行を生涯の唯一・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・ * 金剛寺坂の笛熊さんというのは、女髪結の亭主で大工の本職を放擲って馬鹿囃子の笛ばかり吹いている男であった。按摩の休斎は盲目ではないが生付いての鳥目であった。三味線弾きになろうとしたが非常に癇が悪い。落話家の・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・あんまり放擲ッといちゃアよくないよ。善さんも気の毒な人さ。こんなに冷遇ても厭な顔もしないで、毎晩のように来ておいでなんだから、怒らせないくらいにゃしておやりよ」と、小万も吉里が気に触らないほどにと言葉を添えた。「また無理をお言いだよ」と・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・拙著『時事小言』の第四編にいわく、「ひっきょう、支那人がその国の広大なるを自負して他を蔑視し、かつ数千年来、陰陽五行の妄説に惑溺して、事物の真理原則を求むるの鍵を放擲したるの罪なり。天文をうかがって吉兆を卜し、星宿の変をみて禍福を憂・・・ 福沢諭吉 「物理学の要用」
・・・しかもその記実たる自己が見聞せるすべての事物より句を探り出だすにあらず、記実の中にてもただ自己を離れたる純客観の事物は全くこれを抛擲し、ただ自己を本としてこれに関連する事物の実際を詠ずるに止まれり。今日より見ればその見識の卑きこと実に笑うに・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・彼には、堪える丈堪えたのだと云う自己に対する承認とともに万事を放擲した心境が、一種の感傷癖でなつかしく思われたのだろう。 又、彼のすばしこさで、この事件に対する世人の good will も分ったに違いない。彼の、「自分の決心は定って居・・・ 宮本百合子 「有島武郎の死によせて」
・・・そして突然、自分の生活の道を変更させられ、何年間か一貫した目的を以ていそしんでいた学業や仕事を放擲させられ、一つの鍋の中に打ち込まれた豆のように煮つめられた。そういう避けることの出来ない事情におかれた若い人々にとって最も致命的であった点は、・・・ 宮本百合子 「青年の生きる道」
・・・その結果荷風は、ヨーロッパふうな社会的なものの考えかたは放擲して、自身の有産的境地のゆるす範囲にとうかいして、好色的文学に入ってしまった作家です。社会に発現するあらゆる事象を、骨の髄までみて、そこに出てくる膿までもたじろがずに見きわめる意味・・・ 宮本百合子 「一九四六年の文壇」
出典:青空文庫