・・・再び眠りに落ちてうとうとしながら、古い昔に死んだ故郷の人の夢を見た。フロイドの夢判断に拠るまでもなく、これは時鳥や水鶏が呼び出した夢であろう。 宿の庭の池に鶺鴒が来る。夕方近くなると、どこからともなく次第に集まって来て、池の上を渡す電線・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・小野が東京へでてハッキリとアナーキストとして活動しはじめ、故郷へその影響を及ぼしはじめたのと、その正反対の道なのだ。三吉は梯子段にうつむいたまま、ふちなし眼鏡も、室からさしている電灯の灯に横顔をうかせたまま、そっぽむきにたっていた。――・・・ 徳永直 「白い道」
・・・この小説の中に、かつてシャンパンユの平和なる田園に生れて巴里の美術家となった一青年が、爆裂弾のために全村尽く破滅したその故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた一縷・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・ 先生はこういう風にそれほど故郷を慕う様子もなく、あながち日本を嫌う気色もなく、自分の性格とは容れにくいほどに矛盾な乱雑な空虚にして安っぽいいわゆる新時代の世態が、周囲の過渡層の底からしだいしだいに浮き上って、自分をその中心に陥落せしめ・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
私共が故郷の金沢から始めて東京に出た頃は、水道橋から砲兵工廠辺はまだ淋しい所であった。焼鳥の屋台店などがあって、人力車夫が客待をしていた。春日町辺の本郷側のがけの下には水田があって蛙が鳴いていた。本郷でも、大学の前から駒込・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・下 戦争がすんでから、重吉は故郷に帰った。だが軍隊生活の土産として、酒と女の味を知った彼は、田舎の味気ない土いじりに、もはや満足することが出来なかった。次第に彼は放蕩に身を持ちくずし、とうとう壮士芝居の一座に這入った。田舎廻・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 深谷は修学旅行に、安岡は故郷に病を養いに帰った。 安岡は故郷のあらゆる医師の立ち会い診断でも病名が判然しなかった。臨終の枕頭の親友に彼は言った。「僕の病源は僕だけが知っている」 こう言って、切れ切れな言葉で彼は屍を食うのを・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ エモノのタコを東京に持って帰り、友人の宇野逸夫に話したところ、彼は自分の故郷では、イイダコは赤い色のついたもので釣るという。宇野は隠岐の島出身、つまり日本海である。すると、太平洋のタコは白好きで、日本海のタコは赤好きなのか。きっと、ソ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・これで、平田も心残りなく古郷へ帰れる。私も心配した甲斐があるというものだ。実にありがたかッた」 吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 民間に学校を設けて人民を教育せんとするは、余輩、積年の宿志なりしに、今、京都に来り、はじめてその実際を見るを得たるは、その悦、あたかも故郷に帰りて知己朋友に逢うが如し。おおよそ世間の人、この学校を見て感ぜざる者は、報国の心なき人という・・・ 福沢諭吉 「京都学校の記」
出典:青空文庫