・・・ このとき疾く救護のために一躍して馳せ来たれる、八田巡査を見るよりも、「義さん」と呼吸せわしく、お香は一声呼び懸けて、巡査の胸に額を埋めわれをも人をも忘れしごとく、ひしとばかりに縋り着きぬ。蔦をその身に絡めたるまま枯木は冷然として答・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ それら全部の救護は、ことごとく、少数の医員たちの外、すべて二十年以下の、年わかい看護婦五十名の、ちつじょただしい、ぎせい的の努力によって、しとげられたのです。 そのとき浜離宮へは、すでに何万という市民がひなんしていました。火の子は・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・今度の地震では近い所の都市が幸いに無難であったので救護も比較的迅速に行き届くであろう。しかしもしや宝永安政タイプの大規模地震が主要の大都市を一なでになぎ倒す日が来たらわれらの愛する日本の国はどうなるか。小春の日光はおそらくこれほどうららかに・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・ 平松から大谷の町へかけて被害の最もひどい区域は通行止で公務以外の見物人の通行を止めていた。救護隊の屯所なども出来て白衣の天使や警官が往来し何となく物々しい気分が漂っていた。 山裾の小川に沿った村落の狭い帯状の地帯だけがひどく損害を・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・赤十字の旗を立てた救護隊も交じっている。ずっとあとから「女皇中の女皇」マドムアゼルなにがしと言うのが花車の最高段の玉座に冠をいただいてすわっている。それからいろいろ広告の山車がたくさん来て、最後にまた騎兵が警護していました。行列はこれからリ・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・道太は湯に浸りながら、駅で一人一人救護所へ入っていった当時の避難者の顔や姿まで思いだすことができた。「今日の容態はどうかしら」道太は座敷へ帰ってから、大きな鮎の塩焼などに箸をつけながら、兄が今ごろどうしているかを気づかった。「さあ、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・今このご文は、この大菩薩が、悪業のわれらをあわれみて、救護の道をば説かしゃれた。その始めの方じゃ。しばらく休んで次の講座で述べるといたす。 南無疾翔大力、南無疾翔大力。 みなの衆しばらくゆるりとやすみなされ。」 いちばん高い木の・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・すなわち少年労働訓練所に救護された。サーニが到頭、自身を卓抜な青年労働者にたたき上げる迄の過程に描かれているその「白い大理石の家」の内での生活は、特に老パルチザンである指導者アントーヌィッチの洞察と生活の意義に対する目標の確固不抜性、人生に・・・ 宮本百合子 「作品のテーマと人生のテーマ」
・・・― モスクワのあらゆる街々から赤い広場へ向って行進して来たデモが、広場へ入る二つの門の外で赤旗の海となった時、広場の中では、威風堂々の閲兵式の殿りとして、ソヴェト共産党青年団、中華民国共産党青年団救護隊が通過した。 社会主義ソヴェト・・・ 宮本百合子 「勝利したプロレタリアのメーデー」
・・・大阪の東洋紡績の救護隊総勢二十人近くなかなか手くばりをして、賑に来て居る。となりに居た海軍大佐金沢午後七時〇五分着同三十分信越線のりかえのとき、急行券を買う、そのとき私共と同盟し自分は私共の切符を買ってくれるから、私共はその人の荷物を持ち、・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
出典:青空文庫