・・・十六、死は敢えて厭うところのものに非ず。生き残った妻子は、ふびんなれども致し方なし。然れども今は、戦死の他の死はゆるされぬ。故に怺えて生きて居るなり。この命、今はなんとかしてお国の役に立ちたし。この一箇条、敢えて剣聖にゆずらじと思うもの・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ その短篇集の著者が、万世一系かどうか、それは彼の言論の自由のしからしむるところであろうから、敢えて不問に附するとしても、それに較べて私が乞食だという彼の断案には承知できないものがあった。としの若いやつと、あまり馴れ親しむと、えてしてこ・・・ 太宰治 「母」
・・・メリメ、ゴオゴリほどの男でも、その生存中には、それを敢えてしなかったし、後世の人こそ、あの小説の悪魔は、ゴオゴリ自身であるとか、メリメその人の残忍性であるとか評して、それはもう古典になれば、どちらでもかまわないことなのである。けれども、メリ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・しば御紹介申し上げた筈であるから、いまは繰り返して言わないけれども、私たち後輩に対して常に卓抜の教訓を垂れ給い、ときたま失敗する事があるとはいうものの、とにかく悲痛な理想主義者のひとりであると言っても敢えて過称ではなかろうと思われる。その黄・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ 敢えて農作関係ばかりとは限らず、系統的な海洋観測が我邦のような海国にとっては軍事上からも水産事業のためにも非常に必要であるということは、実に分りきったことであるが、この分り切ったことがどういう訳か昔の日本の政府の大官には永い間どうして・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・、この流派の常として極端に陰影の度を誇張した区劃の中に夜の小雨のいと蕭条に海棠の花弁を散す小庭の風情を見せている等は、誰でも知っている、誰でも喜ぶ、誰でも誘われずにはいられぬ微妙な無声の詩ではないか。敢えて絵空事なんぞと言う勿れ。とかくに芝・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・わたしの敢えて語らんと欲するのは、帝国劇場の女優を中介にして、わたしは聊現代の空気に触れようと冀ったことである。久しく薗八一中節の如き古曲をのみ喜び聴いていたわたしは、褊狭なる自家の旧趣味を棄てて後れ走せながら時代の新俚謡に耳を傾けようと思・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・余輩もまた敢えてこれを強いんとするにあらず。ただ今の世に士君子というべき人が、その子を学校に入れたる趣意を述べて口実に設くれども、かつてその趣意の立たざるもの多きを疑うてこれを咎むるのみ。 その口実に云く、内外多用なるが故に子を教うるの・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・この一点において我輩が見る所を異にすると申すその次第は、敢えて論者の道徳論を非難するにはあらざれども、前後緩急の別について問う所のものなきを得ざるなり。 世界開闢の歴史を見るに、初めは独化の一人ありて、後に男女夫婦を生じたりという。我が・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・蕪村が書ける春泥集の序の中に曰く、彼も知らず、我も知らず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや、こたえて曰く、詩を語るべし、子もとより詩を能くす、他に求むべからず、波疑って敢えて問う、それ詩と俳諧といささかその致を異にす、さるを俳諧を・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫