・・・銀座通りを散歩することもある。……… 主筆 勿論震災前でしょうね? 保吉 ええ、震災のずっと前です。……一しょに音楽会へ出かけることもある。銀座通りを散歩することもある。あるいはまた西洋間の電燈の下に無言の微笑ばかり交わすこともある・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・そうしたら堂脇がお嬢さんを連れて散歩にやってきた。堂脇はこんなふうに歩いて、お嬢さんはこんなふうに歩いてそうして俺の脇に突っ立って画を描くのをじっと見ていたっけが、庭にはいりこんだのを怒ると思いのほか、ふんと感心したような鼻息を漏らした。お・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・塀の外に、散歩らしいのが一人立っていたのでございます。その男が、烏の嘴から落しました奥様のその指環を、掌に載せまして、凝と見ていましたのでございます。紳士 餓鬼め、其奴か。侍女 ええ。紳士 相手は其奴じゃな。侍女 あの、私が・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・きのうもゆう方、君が来て呉れるというハガキを見てから、それをほところに入れたまま、ぶらぶら営所の近所まで散歩して見たんやけど、琵琶湖のふちを歩いとる方がどれほど愉快か知れん。あの狭い練兵場で、毎日、毎日、朝から晩まで、立てとか、すわれとか、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・で、直ぐ近所のポストへ投り込んでからソコラを散歩してかれこれ三十分ばかりして帰ると、机の上に「森林太郎」という名刺があった。ハッと思って女中を呼んで聞くと、ツイたった今おいでになって、先刻は失礼した、宜しくいってくれというお言い置きで御座い・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・せめてもの思い出にと、年子は、先生とお別れする前にいっしょに郊外を散歩したのであります。「先生、ここはどこでしょうか。」 知らない、文化住宅のたくさんあるところへ出たときに、年子はこうたずねました。「さあ、私もはじめてなところな・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ 翌朝、散歩していると、いきなり背後から呼びとめられた。 振り向くと隣室の女がひとりで大股にやって来るのだった。近づいた途端、妙に熱っぽい体臭がぷんと匂った。「お散歩ですの?」 女はひそめた声で訊いた。そして私の返事を待たず・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・一寸そこまで散歩に来たものですからな。……それで何ですかな、家が定まりましたでしょうな? もう定まったでしょうな?」「……さあ、実は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」 彼は起って行って・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 3 石田はある晩のことその崖路の方へ散歩の足を向けた。彼は平常歩いていた往来から教えられたはじめての路へ足を踏み入れたとき、いったいこんなところが自分の家の近所にあったのかと不思議な気がした。元来その辺はむやみに坂・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 三 御散歩ですか。と背後より声をかくるは辰弥なり。光代は打ち驚きて振り返りしが、隠るることもならずほどよく挨拶すれば、いい景色ではありませぬか。あなた、湖水の方へ行ってごらんなされましたかと聞く。いえまだ、実は今宿・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫