・・・いや、断じて道徳的ではない。彼はただ粟野さんの前に彼自身の威厳を保ちたいのである。もっとも威厳を保つ所以は借りた金を返すよりほかに存在しないと云う訣ではない。もし粟野さんも芸術を、――少くとも文芸を愛したとすれば、作家堀川保吉は一篇の傑作を・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・成程、二度目に第二の私を見て以来、稍ともすると、ものに驚き易くなって居りますが、これはあの奇怪な現象に接した結果であって、断じて原因ではございません。私はどうしても、この存在以外の存在を信じなければならないようになったのでございます。 ・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・悪魔また性善なり。断じて一切諸悪の根本にあらず。 ああ、汝、提宇子、すでに悪魔の何たるを知らず、況やまた、天地作者の方寸をや。蔓頭の葛藤、截断し去る。咄。 芥川竜之介 「るしへる」
・・・そんな時が来ても、私がこの農場を解放したのを悔いるようなことは断じてないつもりです。昔なつかしさに、たまに遊びにでもやって来た時、諸君が私に数日の宿を惜しまれなかったら、それは私にとって望外の喜びとするところです。 この上いうことはない・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・私はそうした態度を採ることは断じてできない。 もし階級争闘というものが現代生活の核心をなすものであって、それがそのアルファでありオメガであるならば、私の以上の言説は正当になされた言説であると信じている。どんな偉い学者であれ、思想家であれ・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・……可愛いにつけて、断じて籠には置くまい。秋雨のしょぼしょぼと降るさみしい日、無事なようにと願い申して、岩殿寺の観音の山へ放した時は、煩っていた家内と二人、悄然として、ツィーツィーと梢を低く坂下りに樹を伝って慕い寄る声を聞いて、ほろりとして・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 湖は知らず、海に小さなのといっては断じてあるまい。何しろ、話だけでも東京が好きで、珍らしく土地自慢をしない娘も、対手が地方だけに、ちょっと反感を持ったらしい。 いかにも、湖は晃々と見える。が、水が蒼穹に高い処に光っている。近い山も・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分を籠みにした生がえりのうどん粉の中毒らない法はない。お腹を圧えて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛み出す。――もっとも、戸外は日当りに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・「予は自ら誓えり、世を終るまで鏡を見じと、然り断じて鏡を見まじ。否これを見ざるのみならず、今思出したる鏡という品の名さえ、務めて忘れねばならぬなり。」 三 蝦蟇法師がお通に意あるが如き素振を認めたる連中は、こ・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・味に刺激せられて容易に寐ることが出来ない、故に茶趣味あるものに体屈ということはない、極めて細微の事柄にも趣味の刺激を受くるのであるから、内心当に活動して居る、漫然昼寝するなどということは、茶趣味の人に断じてないのである、茶の湯を単に静閑なる・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
出典:青空文庫