・・・まだ睡つかぬ者は、頭を挙げて新入の私を訝しそうに眺めた。私は勝手が分らぬので、ぼんやり上り口につっ立っていると、すぐ足元に寝ていた男に、「おいおい。人の頭の上で泥下駄を垂下げてる奴があるかい。あっちの壁ぎわが空いてら。そら、駱駝の背中み・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・立派な丸髷に結った何処かの細君らしい婦人で、新入の患者仲間を迎え顔におげんの方へ来て、何か思いついたように恐ろしく丁寧なお辞儀をして行くのもあった。 寒い静かな光線はおげんの行く廊下のところへ射して来ていて、何となく気分を落着かせた。そ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・一、医師は、決して退院の日を教えぬ。確言せぬのだ。底知れず、言を左右にする。一、新入院の者ある時には、必ず、二階の見はらしよき一室に寝かせ、電球もあかるきものとつけかえ、そうして、附き添って来た家族の者を、やや、安心させて、あくる日・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
出典:青空文庫