・・・でわかった事ですが、沢田先生は、小学校で生徒の受験勉強の事から、問題を起し、やめさせられ、それから、くらしが思うように行かず、昔の教え子の家を歴訪しては無理矢理、家庭教師みたいな形になりすまし、生活の方便にしていらっしゃったというような具合・・・ 太宰治 「千代女」
・・・び申候えども、悲しい哉、わが性鈍にしてその真趣を究る能わず、しかのみならず、わが一挙手一投足はなはだ粗野にして見苦しく、われも実父も共に呆れ、孫左衛門殿逝去の後は、われその道を好むと雖も指南を乞うべき方便を知らず、なおまた身辺に世俗の雑用よ・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・科学の理論に用いらるる方便仮説が現実と精密に一致しなくてもさしつかえがないならば、いわゆる絵そら事も少しも虚偽ではない。分子の集団から成る物体を連続体と考えてこれに微分方程式を応用するのが不思議でなければ、色の斑点を羅列して物象を表わす事も・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・の代わりに、個々の記者のいわゆる常識による類型化の主観的方便によるよりほかに一つもたよりになるような根拠がないからいささか心細いと言わなければならない次第である。 セザンヌがりんごを描くのに決して一つ一つのりんごの偶然の表象を描こうとは・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・それでこういう方便のうそをついたものであろう。「椋鳥は毒だ」と言っても人は承知しない。なぜと言えば、今までに椋鳥を食っても平気だったという証人がそこらにいくらもいるからである。しかし千羽に一羽、すなわち〇・一プロセントだけ中毒の蓋然率が・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・そうして古い意味での deterministic な考え方は一つのかりの方便としてしか意味をもたなくなって来た。同じ原因は同じ結果を生ずるという命題は、「同じ」という概念の上におおいかかった黒雲のために焦点をはずれた写真のように漠然たる言詞・・・ 寺田寅彦 「量的と質的と統計的と」
・・・そして疾病と老耄とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外はない。老と病とは人生に倦みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は頗妙である。コノ稿ハ昭和七・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・単に与えられたる輪廓の方便として生存するのは、形骸のために器械の用をなすと一般だからである。その時わが精神の発展が自個天然の法則に遵って、自己に真実なる輪廓を、自らと自らに付与し得ざる屈辱を憤る事さえある。 精神がこの屈辱を感ずるとき、・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・親父が無理算段の学資を工面して卒業の上は月給でも取らせて早く隠居でもしたいと思っているのに、子供の方では活計の方なんかまるで無頓着で、ただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて机に靠れて苦り切っているのもある。親は生計のための修業と考え・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・時としては方便の道具として酒や女を用いても好いくらいのものでしょう。実業家などがむずかしい相談をするのにかえって見当違の待合などで落合って要領を得ているのも、全く酒色という人間の窮屈を融かし合う機械の具った場所で、その影響の下に、角の取れた・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
出典:青空文庫