・・・ 浜伝いにS村へ出る途は高い砂山の裾をまわり、ちょうど海水浴区域とは反対の方角に向っていた。海は勿論砂山に隠れ、浪の音もかすかにしか聞えなかった。しかし疎らに生え伸びた草は何か黒い穂に出ながら、絶えず潮風にそよいでいた。「この辺に生・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ さては、暗の中に暗をかさねて目を塞いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝と今度は腕を差出すようにしたが、それも手ばかり。 はッと俯向き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・こっから東の方角でございます。ヘイ。あの村木立ちでございます。ヘイ、そのさきに寺がめいます、森の上からお堂の屋根がめいましょう。法華のお寺でございます。あっこはもう勝山でござります、ヘイ」「じいさん、どうだろう雨にはなるまいか」「ヘ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・この夜、猿芝居が終って賓客が散じた頃、鹿鳴館の方角から若い美くしい洋装の貴夫人が帽子も被らず靴も穿かず、髪をオドロと振乱した半狂乱の体でバタバタと駈けて来て、折から日比谷の原の端れに客待ちしていた俥を呼留め、飛乗りざまに幌を深く卸させて神田・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ しかし、道は、遠く、ひとり歩いたのでは、方角すらも、よくわからないのであります。彼女はただわずかに、川に添うて歩いてきたことを思い出しました。どうかして、川ばたに出て、それについてゆこう。その後は、野にねたり、里に憩うたりして、路を聞・・・ 小川未明 「海ぼたる」
・・・駅とは正反対の方角ゆえ、その道から駅へ出られるとも思えず、なぜその道を帰って来るのだろうと不審だったが、そしてまた例のものぐさで訊ねる気にもなれなかったが、もしかしたらバスか何かの停留所があってそこから町へ行けるではないかと、かねがね考えて・・・ 織田作之助 「道」
・・・ 最後まで残った私と弟、妻の父、妻と娘たちとの六人は、停車場まで自動車で送られ、待合室で彼女たちと別れて、彼女たちとは反対の方角の二つ目の駅のOという温泉場へ下りた。「やれやれ、ご苦労だった。これでまあどうやら無事にすんだというわけ・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・それの飛んで行った方角には日光に撒かれた虻の光点が忙しく行き交うていた。「痴呆のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜りに屈まっていた。――やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。四五歳の童子・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日は富士の背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちにさまざまの形に変ずる。連山の頂は・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・知性の進歩はその方角にあるのではない。恋愛を性慾的に考えるのに何の骨が折れるか。それは誰でも、いつでもできる平凡事にすぎない。今日の文化の段階にまで達したる人間性の精神的要素と、ならびに人間性に禀具するらしい可能的神秘の側面で、われわれの恋・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫