・・・ 方角も吉里の室、距離もそのくらいのところに上草履の音が発ッて、「平田さん、お待ちなさいよ」と、お梅の声で呼びかけて追いかける様子である。その後から二三人の足音が同じ方角へ歩み出した。「や、去るな。いよいよ去るな」と、善吉は撥ね起き・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。そいつあいけねえぜ。」一本腕が、口に一ぱい物を頬張りながら云った。 一言の返事もせずに、地び・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・然るに此男子をば余処にして独り女子を警しむ、念入りたる教訓にして有難しとは申しながら、比較的に方角違いと言う可きのみ。一 婦人は夫の家を我家とする故に唐土には嫁を帰るといふなり。仮令夫の家貧賤成共夫を怨むべからず。天より我に与へ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・それなら時々地獄極楽を見物にいって気晴らしするもおつだが、しかし方角が分らないテ。めったに闇の中を歩行いて血の池なんかに落ちようものなら百年目だ、こんな事なら円遊に細しく聞いて来るのだッた。オヤ梟が鳴く。何でも気味の善い鳥とは思わなかったが・・・ 正岡子規 「墓」
・・・団長もやっと覚悟がきまったと見えて、持っていた鉄の棒を投げすてて、眼をちゃんときめて、石を運んで行く方角を見定めましたがまだどうも本当に引っぱる気にはなりませんでした。そこであまがえるは声をそろえてはやしてやりました。「ヨウイト、ヨウイ・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ 去年の『厄』は無事にすんださかい安心しとったになあ、方角でも悪いんやろか、気がつかなんだが。「そんな、阿房な事あるもんか、 でも、わしに来い云うてんやが、実際困って仕舞うなあ。 第一行く金からしてあらへん。 少しば・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 館のあるお花畠からは、山崎はすぐ向うになっているので、光尚が館を出るとき、阿部の屋敷の方角に人声物音がするのが聞こえた。「今討ち入ったな」と言って、光尚は駕籠に乗った。 駕籠がようよう一町ばかりいったとき、注進があった。竹内数・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ そこで己は外の方角から、エルリングの事を探知しようとした。 己はその後中庭や畠で、エルリングが色々の為事をするのを見た。薪を割っている事もある。花壇を掘り返している事もある。桜ん坊を摘んでいる事もある。一山もある、濡れた洗濯物を車・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・そして思わず燃え下がったマッチでその方角を照して見た。なんだかヴェエルで顔をすっかり包んだ女のような姿がちらと見えたらしかった。そのうちマッチは消えて元の闇になった。 フィンクは今の声がまたすれば好いと思って待っている。そのうち果してま・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・戦争については、吉日を選び、方角を考えて時日を移すというような、迷信からの脱却を重大な心掛けとして説いている。その他正直者の重用を説き、理非を絶対に曲げてはならないこと、断乎たる処分も結局は慈悲の殺生であることなどを力説しているのも、目につ・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫