・・・我らのほかにも旅人三人ばかり憩い居けるが、口々にあらずもがなのおそろしき雨かなとつぶやき、この家の主が妻は雷をおそれて病める人のようにうちふしなやむ。 されどとかくする中、さしもの雷雨もいささか勢弱りければ、夜に入らぬ中にとてまた車を駛・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・午前九時知る人をたずねしに、言葉の聞きちがえにて、いと知れにくかりければ、いそがずはまちがえまじを旅人の あとよりわかる路次のむだ道 二十一日、この日もまた我が得べき筋の金を得ず、今しばらく待ちてよとの事に逗・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護ろうとする心に帰って行った。 安い思いもなしに、移り行く世相・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・おげんが遺した物と云っても、旅人のように極少なかった。養子はそれを始末しながら、「よくそれでも、こんなところに辛抱したものだ」 と言った。宗太も思出したように、「姉さんも、俺が一度訪ねて来た時は大分落着いていて、この分ならもうそ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・の決心がついたかのごとく呟くが、しかし、何一つとしてうまい考えは無く、谷間の老人は馬に乗って威厳のある演説をしようとするが、馬は老人の意志を無視してどこまでも一直線に歩き、彼は演説をしながら心ならずも旅人の如く往還に出て、さらに北へ向って行・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・ いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとから・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・ 通りすがりの旅人が金閣寺を見物しようとするには案内の小僧は甚だ重宝なものであるが、本当に自分の眼で充分に見物しようとするには甚だ不都合なものである。一通りの定まった版行で押した項目だけを暗誦的に説明してしまえばそれでもうおしまいで先様・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
・・・手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋で準え、何時にても直様出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴里を離れず、かえって旅人のような心持で巴里の町々を彷徨してい・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ままにふくろふの糊すりおけと呼ぶ声に衣ときはなち妹は夜ふかすこぼれ糸さでにつくりて魚とると二郎太郎三郎川に日くらす行路雨雨ふれば泥踏なづむ大津道我に馬ありめさね旅人古寺雨風まじ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫