・・・の趣があって、健なる神の、草鞋を飾る花たばと見ゆるまで、日に輝きつつも、何となく旅情を催させて、故郷なれば可懐しさも身に沁みる。 峰の松風が遠く静に聞えた。 庫裡に音信れて、お墓経をと頼むと、気軽に取次がれた住職が、納所とも小僧とも・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の御馳走に、その鯉を切るのかね。」「へへ。」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそと樹を潜って廂に隠れる。 帳場は遠し、あとは雪が・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・そういえば君は、「何が平気なもんか、万里異境にある旅情のさびしさは君にはわからぬ」などいうだろうけれど、僕から見ればよくよくやむを得ぬという事情があるでもなく、二年も三年も妻子を郷国に置いて海外に悠遊し、旅情のさびしみなどはむしろ一種の興味・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・予も又胸に一種の淋しみを包みつつある此際、転た旅情の心細さを彼が為に増すを覚えた。 予も無言、車屋も無言。田か畑か判らぬところ五六丁を過ぎ、薄暗い町を三十分程走って、車屋は車を緩めた。「此の辺が四ッ谷町でござりますが」「そうか、・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・とたんに黴くさい匂いがぷんと漂うて、思いがけぬ旅情が胸のなかを走った。 じっと横たわっていると、何か不安定な気がして来た。考えてみると、どうも枕元と襖の間が広すぎるようだった。ふだん枕元に、スタンドや灰皿や紅茶茶碗や書物、原稿用紙などを・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・私はふと濡れるような旅情を感ずると、にわかに生への執着が甦ってきました。そしてふと想いだした文子の顔は額がせまくて、鼻が少し上向いた、はれぼったい瞼の、何か醜い顔だった。キンキンした声も二十四の歳にしては、いやらしく若やいでいる……。 ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・そして着いた夜あるホテルへ泊まるんですが、夜中にふと眼をさましてそれからすぐ寝つけないで、深夜の闇のなかに旅情を感じながら窓の外を眺めるんです。空は美しい星空で、その下にウィーンの市が眠っている。その男はしばらくその夜景に眺め耽っていたが、・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・――そして何という旅情…… 以前住んだ町を歩いて見る日がとうとうやって来た。彼は道々、町の名前が変わってはいないかと心配しながら、ひとに道を尋ねた。町はあった。近づくにつれて心が重くなった。一軒二軒、昔と変わらない家が、新しい家に挾・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・ 電燈も来ないのに早や戸じまりをした一軒の家の二階――戸のあらわな木肌は、不意に堯の心を寄辺のない旅情で染めた。 ――食うものも持たない。どこに泊まるあてもない。そして日は暮れかかっているが、この他国の町は早や自分を拒んでいる。――・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・電車のなかで自分は友人に、「旅情を感じないか」と言って見た。殻斗科の花や青葉の匂いに満された密度の濃い空気が、しばらく自分達を包んだ。――その日から自分はまた、その日の獲物だった崖からの近道を通うようになった。 それはある雨あが・・・ 梶井基次郎 「路上」
出典:青空文庫