・・・実際僕は久しぶりに、旅愁も何も忘れながら、陶然と盃を口にしていた。その内にふと気がつくと、誰か一人幕の陰から、時々こちらを覗くものがある。が、僕はそちらを見るが早いか、すぐに幕の後へ隠れてしまう。そうして僕が眼を外らせば、じっとまたこちらを・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・響から脱すべく純粋小説論をものして、日本の伝統小説の日常性に反抗して虚構と偶然を説き、小説は芸術にあらずという主張を持つ新しい長編小説に近代小説の思想性を獲得しようと奮闘した横光利一の野心が、ついに「旅愁」の後半に至り、人物の思考が美術工芸・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・佐渡の人情を調べたいのである。そこへはいった。「お酒を、飲みに来たのです。」私は少し優しい声になっていた。さむらいでは無かった。 この料亭の悪口は言うまい。はいった奴が、ばかなのである。佐渡の旅愁は、そこに無かった。料理だけがあった・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・山峡のまちに居るのだな、と酔っていながらも旅愁を感じた。 宿に送りとどけられ、幸吉兄妹に蒲団までひいてもらったのだろう、私は翌る日の正午ちかくまで、投げ捨てられた鱈のように、だらしなく眠った。「郵便屋さんですよ。玄関まで。」宿の女中・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・道の向う側の黒い板塀の下に一株の紫陽花が咲いていて、その花がいまでもはっきり頭に残っているところから考えると、或いは僕はそのとき柄にもなく旅愁に似たセンチメンタルな気持でいたのかも知れないね。「兵隊さん、雨に濡れてしまいますよ。」 ・・・ 太宰治 「雀」
・・・けれども、それが消えると、又元のような旅愁が彼女の心に入って来る。 ○汽車が動いて居るのだと云うことを証挙だてる、どんなささいなものもくらいそとには見えない。其故ときによって、心持の持ちようによると、列車はまるで前へは進まずに、一つ・・・ 宮本百合子 「「禰宜様宮田」創作メモ」
・・・ブルジョア文学が横光利一の「旅愁」のように、ヨーロッパをブルジョア民族主義の立場から書いた作品が広汎によまれている日本で、「道標」をふくむ一連の作品が闘争の階級的武器として一定の役割を果すことを信じています。 国際帝国主義によって反ソデ・・・ 宮本百合子 「文学について」
・・・あなたの書かれた旅愁というの、四度読みましたが、あそこに出て来る数学のことは面白かったなア。」 考えれば、寝ても立ってもおられぬときだのに、大厦を支える一木が小説のことをいうのである。遽しい将官たちの往き来とソビエットに挟まれた夕闇の底・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫