・・・その晩もとうとう寝床を起きてしまいまして、幸い月夜でもあり、旅館を出て、錯落とした松樹の影を踏みながら砂浜へ出て行きました。引きあげられた漁船や、地引網を捲く轆轤などが白い砂に鮮かな影をおとしているほか、浜には何の人影もありませんでした。干・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ 西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかり日覆をした旅館がやや近くに見えた。どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」と反響した。 次つぎ止まるひまなしにつくつく法師が鳴いた。「・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・此地の温泉は今春以来かく大きなる旅館なども設けらるるようなりしにて、箱館と相関聯して今後とも盛衰すべき好位置に在り。眺望のこれと指して云うべきも無けれど、かの市より此地まであるいは海浜に沿いあるいは田圃を過ぐる路の興も無きにはあらず、空気殊・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ たしかに、あれは、関東大地震のとしではなかったかしら、と思うのであるが、そのとしの一夏を、私は母や叔母や姉やら従姉やらその他なんだか多勢で、浅虫温泉の旅館で遊び暮した事があって、その時、一番下のおしゃれな兄が、東京からやって来て、しば・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ほとんど素人下宿のような宿で、部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて、すぐ隣りの大きい旅館にお湯をもらいに行くか、雨降ってるときには傘をさし、夜なら提燈かはだか蝋燭もって、したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければならな・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・甲府市外の湯村温泉、なんの変哲もない田圃の中の温泉であるが、東京に近いわりには鄙びて静かだし、宿も安直なので、私は仕事がたまると、ちょいちょいそこへ行って、そこの天保館という古い旅館の一室に自らを閉じこめて仕事をはじめるということにしていた・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・乗合馬車の中で女教員らしい女の読んでいるのを見たこともあれば、こんな旅館にと思われるような帳場に放り出されてあるのを見たことがあった。「中田の遊廓に行ったなんて、うそだそうですよ。小説家なんて、ひどいことを書くもんですね」 こういう言葉も私・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・当時父は日清戦役のために予備役で召集され、K留守師団に職を奉じながら麹町区平河町のM旅館に泊まっていたのである。 Iの家の二階や階下の便所の窓からは、幅三尺の路地を隔てた竹葉の料理場でうなぎを焼く団扇の羽ばたきが見え、音が聞こえ、におい・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ H温泉旅館の前庭の丸い芝生の植え込みをめぐって電燈入りの地口行燈がともり、それを取り巻いて踊りの輪がめぐるのである。まだ宵のうちは帳場の蓄音機が人寄せの佐渡おけさを繰り返していると、ぽつぽつ付近の丘の上から別荘の人たちが見物に出かけて・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・ 床屋も不思議だがハタゴヤもなぜ旅館だかわからない。 ギリシアの宿屋が pandocheion でいくらか似ているのはおもしろい。パドケヤとハタゴヤである。pan と dechomai, すなわちだれでも接待する意だそうである。衆生・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
出典:青空文庫