・・・神父はわざと微笑しながら、片言に近い日本語を使った。「何か御用ですか?」「はい、少々お願いの筋がございまして。」 女は慇懃に会釈をした。貧しい身なりにも関らず、これだけはちゃんと結い上げた笄髷の頭を下げたのである。神父は微笑んだ・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ 陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間に合うまい。――じゃ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・これは日本語に翻訳すれば、「おい、バッグ、どうしたんだ」ということです。が、バッグは返事をしません。のみならずいきなり立ち上がると、べろりと舌を出したなり、ちょうど蛙の跳ねるように飛びかかる気色さえ示しました。僕はいよいよ無気味になり、そっ・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・それは、我々の要求する詩は、現在の日本に生活し、現在の日本語を用い、現在の日本を了解しているところの日本人によって歌われた詩でなければならぬということである。 そうして私は、私自身現在の諸詩人の詩に満足するか否かをいう代りに、次の事をい・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・殊に森は留学時代に日本語廃止論を提唱したほど青木よりも一層徹底して、剛毅果断の気象に富んでいた。 青木は外国婦人を娶ったが、森は明治の初め海外留学の先駈をした日本婦人と結婚した。式を挙げるに福沢先生を証人に立てて外国風に契約を交換す結婚・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・南方派遣日本語教授要員の募集の記事が、ふと眼に止ったのである。「南方へ日本語を教えに行く人を募集しているのだわ。」 と、呟きながら読んで行って、「応募資格ハ男女ヲ問ハズ、専門学校卒業又ハ同程度以上ノ学力ヲ有スル者」という個所まで来る・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・そしてきゃっきゃっと笑いながら何か喋り合っていたが、彼女の使う言葉はある自由さを持った西洋人の日本語で、それを彼女が喋るとき青年達を給仕していたときとはまるでちがった変な魅力が生じた。「僕は一度こんな小説を読んだことがある」 聴き手・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 密偵は、鮮人だった。日本語と露西亜語がなか/\達者な、月三十円で憲兵隊に使われている男だった。隊長は犯人を検挙するために、褒美を十円やることを云い渡してあった。密偵は十円に釣られて、犬のように犯人を嗅ぎまわった。そして、十円を貰って嬉・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 吉永が日本語で云った。「なアに?」 吉永は、少女にこちらへ来るように手まねきをした。 丘の上では、彼等が、きゃあきゃあ笑ったり叫んだりした。 そして、少し行くと、それから自分の家へ分れ分れに散らばってしまった。・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・何か日本語でないひゞきがした。 ふと、月かげにすかして見ると、それは、昼間、酒を呉れた支那兵だった。「有がとう! 有がとう!」 彼は、つゞけてそう云った。 それから、なお、十分間も、犬に対する射撃は、継続された。犬の群は、白・・・ 黒島伝治 「前哨」
出典:青空文庫