・・・「誰も死んだ上は変りはない。とにかくこれへ持って参るように。」 正純はまた次ぎの間へ退き、母布をかけた首桶を前にいつまでもじっと坐っていた。「早うせぬか。」 家康は次ぎの間へ声をかけた。遠州横須賀の徒士のものだった塙団右衛門・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・川森は仁右衛門が眼を覚ましたのを見ると、「早う内さ行くべし。汝が嬰子はおっ死ぬべえぞ。赤痢さとッつかれただ」といった。他愛のない夢から一足飛びにこの恐ろしい現実に呼びさまされた彼れの心は、最初に彼れの顔を高笑いにくずそうとしたが、す・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ きく奴も、聞く奴だが、「早うて、……来月の今頃だあねえ。」「成程。」 まったく山家はのん気だ。つい目と鼻のさきには、化粧煉瓦で、露台と言うのが建っている。別館、あるいは新築と称して、湯宿一軒に西洋づくりの一部は、なくてはな・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・「お門が違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。」と、格子の方へくるりと背く。 紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの隣家の柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ附着いた。 何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を引・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・七左 壮健とも、機嫌は今日のお天気でえす。早う行って逢いなさい。白糸 難有う、飛んだお邪魔を――あ、旦那。七左 はいはい。白糸 それから、あの、ちょっと伺いとう存じますが、欣弥さんは、唯今、御家内はお幾人。七左 二人じゃ・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・もう、何でも早う戦場にのぞみとうてのぞみとうて堪えられなんだやろ。心では、おうかた、大砲の音を聴いとったんやろ。僕は、あの時成る程離縁問題が出た筈やと思た。」「成る程、これからがいよいよ人の気が狂い出すという幕だ、な。」「それが、さ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ まだ、さくらの花も、ももの花も咲くには早うございましたけれど、うめだけが、かきねのきわに咲いていました。そして、雪もたいてい消えてしまって、ただ大きな寺のうらや、畑のすみのところなどに、いくぶんか消えずにのこっているくらいのものであり・・・ 小川未明 「金の輪」
・・・ 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」 瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中へ注入れられたようであったが、それぎりでまた空。 担架は調子好く揺れて行く。それがまた寝せ付られるようで快い。今眼が覚めたかと思うと・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 姉が合点合点などしてゆっくり捜しかけるのを、じゅうじゅうと音をさせて煙草を呑んでいた兄は「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度しやんし」と言って煙管の詰まったのを気にしていた。 奥の間で信子の仕度を手伝ってやっていた義母が・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・少しも早う、この毒を呑んで死んでお呉れ。そんなたわむれの言葉を交しながら、ゆとりある態度で呑みおわって、それから、大きいひらたい岩にふたりならんで腰かけて、両脚をぶらぶらうごかしながら、静かに薬のきく時を待って居ました。私はいま、徹頭徹尾、・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫