・・・さあ、早く逃げましょう」 妙子はまだ夢現のように、弱々しい声を出しました。「計略は駄目だったわ。つい私が眠ってしまったものだから、――堪忍して頂戴よ」「計略が露顕したのは、あなたのせいじゃありませんよ。あなたは私と約束した通り、・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・少しでも早く海の中につかりたいので三人は気息を切って急いだのです。 紆波といいますね、その波がうっていました。ちゃぷりちゃぷりと小さな波が波打際でくだけるのではなく、少し沖の方に細長い小山のような波が出来て、それが陸の方を向いて段々押寄・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
ずっと早く、まだ外が薄明るくもならないうちに、内じゅうが起きて明りを附けた。窓の外は、まだ青い夜の霧が立ち籠めている。その霧に、そろそろ近くなって来る朝の灰色の光が雑って来る。寒い。体じゅうが微かに顫える。目がいらいらする。無理に早く・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・B 君はきっと早く死ぬ。もう少し気を広く持たなくちゃ可かんよ。一体君は余りアンビシャスだから可かん。何だって真の満足ってものは世の中に有りやしない。従って何だって飽きる時が来るに定ってらあ。飽きたり、不満足になったりする時を予想して何に・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・「ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ推切って、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁が欲いんですよ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・「そりゃ聞きたい、早く聞かしてくれ」「へい、そりゃ大むかしのことだったそうでござります。なんでもなん千年というむかし、甲斐と駿河の境さ、大山荒れがはじまったが、ごんごんごうごう暗やみの奥で鳴りだしたそうでござります。そうすると、そこ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ 旅行の暮の僧にて候 雪やこんこん、あられやこんこんと小褄にためて里の小娘は嵐の吹く松の下に集って脇明から入って来る風のさむいのもかまわず日のあんまり早く暮れてしまうのをおしんで居ると熊野を参詣した僧が山々の□(所を・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・「帰りたきゃア早く帰ったらいいじゃアないか?」「おッ母さんにそう言ってやった、わ、迎えに来なきゃア死んじまうッて」「おそろしいこッた。しかしそんなことで、びくつくおッ母さんじゃアあるまい」「おッ母さんはそりゃアそりゃア可愛が・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・納め手拭はいつ頃から初まったか知らぬが、少くも喜兵衛は最も早く率先して盛んにこれを広告に応用した最初の一人であった。 さらぬだに淡島屋の名は美くしい錦絵のような袋で広まっていたから、淡島屋の軽焼は江戸一だという評判が益々高くなって、大名・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ソコで友人がいうには「明日の朝早く持ってこい、そうすれば貸してやる」といって貸してやったら、その人はまたこれをその家へ持っていって一所懸命に読んで、暁方まで読んだところが、あしたの事業に妨げがあるというので、その本をば机の上に抛り放しにして・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫