・・・岡田氏はもし事実とすれば、「多分馬の前脚をとってつけたものと思いますが、スペイン速歩とか言う妙技を演じ得る逸足ならば、前脚で物を蹴るくらいの変り芸もするか知れず、それとても湯浅少佐あたりが乗るのでなければ、果して馬自身でやり了せるかどうか、・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ 引込まれては大変だと、早足に歩行き出すと、何だかうしろから追い駈けるようだから、一心に遁げ出してさ、坂の上で振返ると、凄いような月で。 ああ、春の末でした。 あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。 自分の影を・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・毎日一度大飯を喰って、日比谷の原を早足で三遍も廻れば直き肥る。それには牛肉で飯を喰うのが一番だ。肉が営養があるというわけではないので、食慾を刺戟するのは肉が一番だから、肉で喰うのが一番飯が余計喰える。」と大食と食後の早足運動を力説した。・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・この鐘の最後の一打ちわずかに響きおわるころ夕煙巷をこめて東の林を離れし月影淡く小川の水に砕けそむれば近きわたりの騎馬隊の兵士が踵に届く長剣を左手にさげて早足に巷を上りゆく、続いて駄馬牽く馬子が鼻歌おもしろく、茶店の娘に声かけられても返事せぬ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・太い、しっかりした腕に、娘はぶら下って、ちょか/\早足に踵の高い靴をかわした。「馭者! 馭者!」 ころげそうになる娘を支えて、アメリカ兵は靴のつまさきに注意を集中して丘を下った。娘の外套は、メリケン兵の膝頭でひら/\ひるがえった。街・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・彼は、涙を他人に見られまいとして、俯向いて早足にそこを去った。そして、醤油を煮ている釜の傍の大きな煉瓦の煙突の下に来た。涙は、なおつづいて出た。すると悲しくてたまらなくなって来た。顔を煙突につけると、煉瓦は中を通る煙の熱で温くなっていた。頭・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・ あとから女達が闇の中を早足に追いついて来た。暫らく、市三の脇から鉱車を押す手ごをしたが、やがて、左側の支坑へそれてしまった。 竪坑の電球が、茶色に薄ぼんやりと、向うに見えた。そして、四五人の人声が伝って来た。「誰れだい、たった・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・ ――上りになっていた道をむしろ早足で歩いてきたので身体が熱かった。Tのいる室に明るく電燈がついているのが見えた。そこで机の前に坐り、外のことにはちっとも気を散らさずに、自分の仕事をしているTがすぐ想像できた。そんなところへこのあやふや・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・みんなが早足に町の敷石を蹈み締め蹈み締めして歩いていた時に気が付いている。あの冬になってもやはり綺麗に見える庭の後に、懐かしげな立派な家が立ち並んでいる町を歩いていたときの事である。あのあたりの家はみな暖かい巣のような家であって、明るい人懐・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・いっそ他人のふりをしようと早足に歩いてみても、ポチは私の傍を離れず、私の顔を振り仰ぎ振り仰ぎ、あとになり、さきになり、からみつくようにしてついてくるのだから、どうしたって二人は他人のようには見えまい。気心の合った主従としか見えまい。おかげで・・・ 太宰治 「畜犬談」
出典:青空文庫