・・・まずこいつをとっちめて、――と云う権幕でしたから、新蔵はずいと上りざまに、夏外套を脱ぎ捨てると、思わず止めようとしたお敏の手へ、麦藁帽子を残したなり、昂然と次の間へ通りました。が、可哀そうなのは後に残ったお敏で、これは境の襖の襖側にぴったり・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ もう昂然とした口調だった。「ふうん」 小沢は何か情けなかった。「――好きな男と……?」「好きな男なんかあれへん」「じゃ。嫌いな男とか……?」「嫌いな男もあったわ」「嫌いな男とどうしてそんなことをするんだ?」・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・何様も十分調べて置いてシツッコク文字論をするので講者は大に窘められたのでしたが、余り窘められたのでやがて昂然として難者に対って、「僕は読書ただ其の大略を領すれば足りるので、句読訓詁の事などはどうでもよいと思って居る」など互に鎬を削ったもので・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ 今時分、人一人通ろうようは無い此様なところの雪の中を、何処を雪が降っているというように、寒いも淋しいも知らぬげに、昂然として又悠然として田舎の方から歩いて来る者があった。 こんなところを今頃うろつくのは、哀れな鳥か獣か。小鳥では無・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・大隅君は昂然と言った。 銭湯から帰って、早めの夕食をたべた。お酒も出た。「酒だってあるし、」大隅君は、酒を飲みながら、叱るような口調で私に言うのである。「お料理だって、こんなにたくさん出来るじゃないか。君たちはめぐまれ過ぎているんだ・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ 細田氏ひとりは、昂然たるものである。「はい、はい。」 何気ないような快活な返事をして、細君は彼に薬缶を手渡す。 彼が部屋を出てから、すぐに私は細君にたずねた。「いつから、あんなになったのですか?」「え?」 と、・・・ 太宰治 「女神」
・・・それが幸ひ一つの昂然たる貴族的精神によつて、今日まで埋没から救はれてるのは、ひとへに全くニイチェから学んだ訓育の為である。そしてこの一事が、僕のニイチェから受けた教育のあらゆる「全体のもの」なのである。・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・涙は眼に溢れるけれども、頭は昂然と歴史の前途に向ってもたげ、愛と勇気と堅忍とをもって民主の日本を生きようとするすべての精神にとって、この一巻の書簡集はおくられるのであると思う。〔一九四六年九月〕・・・ 宮本百合子 「人民のために捧げられた生涯」
・・・オノレ・ド・バルザックはパリの屋根裏から昂然と太い頸をもたげ、南方フランス人の快活さ、自信、加うるにブルジョア勃興期の特質をまぎれもなく自身の血の中に具えて、「名声」と「富」とを勝利の花飾りとして情熱的に夢見つつ、文学の仕事にとり組みはじめ・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・そして、戦いの中に「昂然と身を捨て切った精神に洗われ」「自身の内に英雄を感じ」終結は「この戦場をのりこえて」「善良が不徳でないところまで、私を強くするのだ」という気持を、この作者は語ろうとしている。本多氏の短評では、「私」を出して書いている・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
出典:青空文庫