・・・ 電話の切れるのが合図だったように、賢造は大きな洋傘を開くと、さっさと往来へ歩き出した。その姿がちょいとの間、浅く泥を刷いたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。「神山さんはいないのかい?」 洋一は帳場机に坐りな・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そして口に手拭を喰わえてそれを開くと、一寸四方ほどな何か字の書いてある紙片を摘み出して指の先きで丸めた。水を持って来さしてそれをその中へ浸した。仁右衛門はそれを赤坊に飲ませろとさし出されたが、飲ませるだけの勇気もなかった。妻は甲斐甲斐しく良・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・不思議と左を見詰めると、この飾もまた、光を放って、腕を開くと胸がまた晃きはじめた。 この光、ただに身に添うばかりでなく、土に砕け、宙に飛んで、翠の蝶の舞うばかり、目に遮るものは、臼も、桶も、皆これ青貝摺の器に斉い。 一足進むと、歩く・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ もう寝たのかしらんと危ぶみながら、潜戸に手を掛けると無造作に明く。戸は無造作にあいたが、這入る足は重い。当り前ならば、尋ねる友人の家に著いたのであるから、やれ嬉しやと安心すべき筈だに、おかしく胸に不安の波が騒いで、此家に来たことを今更・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・と、戸が明くのを待って、僕は父を座敷へ通した。 妻が残して行った二人の子供のいびきが、隣りの室から聴えている。 僕が茶を命じたら、「今、火を起しますから」と、妻の母は答えた。「もう、茶はいりませんよ、お婆アさん」と言っておい・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その頃の書家や画家が売名の手段は書画会を開くが唯一の策であった。今日の百画会は当時の書画会の変形であるが、展覧会がなかった時代には書画会以外に書家や画家が自ら世に紹介する道がなかったから、今日の百画会が無名の小画家の生活手段であると反して、・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 初夏のころには、青い、小さな実が鈴生りになりました。そして、その実がだんだん大きくなりかけた時分に、一時に虫がついて、畑全体にりんごの実が落ちてしまいました。 明くる年も、その明くる年も、同じように、りんごの実は落ちてしまいました・・・ 小川未明 「牛女」
・・・しかし、料理屋を開くには、もう少し料理屋の内幕や経営法を知って置いた方がよい。そう思って口入屋の紹介で住込仲居にはいった先がたまたま石田の店であった。石田は苦味走ったいい男で、新内の喉がよく、彼女が銚子を持って廊下を通ると、通せんぼうの手を・・・ 織田作之助 「世相」
・・・一寸手を延すだけの世話で、直ぐ埒が明く。皆打切らなかったと見えて、弾丸も其処に沢山転がっている。 さア、死ぬか――待ってみるか? 何を? 助かるのを? 死ぬのを? 敵が来て傷を負ったおれの足の皮剥に懸るを待ってみるのか? それよりも寧そ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 内から戸が開くと、「竹内君は来てお出ですかね」と低い声の沈重いた調子で訊ねた。「ハア、お出で御座います、貴様は?」と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。「これを」と出した名刺には五号活字で岡本誠夫としてあるばかり、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫