・・・夢には、桜は、しかし桃の梢に、妙見宮の棟下りに晃々と明星が輝いたのである。 翌日も、翌日も……行ってその三度の時、寺の垣を、例の人里へ出ると斉しく、桃の枝を黒髪に、花菜を褄にして立った、世にも美しい娘を見た。 十六七の、瓜実顔の色の・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 膚の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、拳って座中の明星と称えられた村井紫玉が、「まあ……前刻の、あの、小さな児は?」 公園の茶店に、一人静に憩いながら、緋塩瀬の煙管筒の結目を解掛けつつ、偶と思った。…… 髷も女優巻でな・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・北辰妙見の宮、摩利支天の御堂、弁財天の祠には名木の紅梅の枝垂れつつ咲くのがある。明星の丘の毘沙門天。虫歯封じに箸を供うる辻の坂の地蔵菩薩。時雨の如意輪観世音。笠守の神。日中も梟が鳴くという森の奥の虚空蔵堂。―― 清水の真空の高い丘に、鐘・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・(この咄については『明星』掲載当時或る知人から誤解であると手柬 若い人たちの中には鴎外が晩年考証に没頭して純文芸に遠ざかったのを惜んで、鴎外を追懐するにつけて再び文芸に帰る期が失われたのを遺憾とするものがあった。 が、私の思うま・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・それは、明治三十七年、十月頃の「明星」に出た。題は、「君死にたまふことなかれ」という。弟が旅順口包囲軍に加わって戦争に出たのを歎いて歌ったものである。同氏のほかの短歌や詩は、恋だとか、何だとかをヒネくって、技巧を弄し、吾々は一体虫が好かんも・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
・・・『明星』にあこがれた青年、なかばロマンチックで、ファンタスチックで、そしてまだ新しい思潮には到達しない青年の群れ――その群れを描くことについては、私にとって非常な困難があった。中学時代のかれの初恋、つづいて起こった恋愛事件、それがのみ込めな・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・いろいろないたずら書きの中に『明星』ばりの幼稚な感傷的な歌がいくつか並んでいる。こういう歌はもう二度と作れそうもない。当時二十五歳大学の三年生になったばかりの自分であったのである。 たしかその時のことである。江の島の金亀楼で一晩泊った。・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・ここで若い靴磨きが変な街路詩人の詩を口ずさみ三等席の頭上あたりの宵の明星を指さして夕刊娘の淡い恋心にささやかな漣を立てる。バーからひびくレコード音楽は遠いパリの夜の巷を流れる西洋新内らしい。すべてが一九三三年向きである。 この芝居を見て・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・驚いて箸を持ったまま、思わず音のする彼方を見返ると、底びかりのする神秘な夜の空に、宵の明星のかげが、たった一ツさびし気に浮いているのが見える。枯れた樹の梢に三日月のかかっているのを見ることもある。 やがて日の長くなることが、やや際立って・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・ 千朶山房の草稿もその晩年『明星』に寄せられたものを見るに無罫の半紙に毛筆をもって楷行を交えたる書体、清勁暢達、直にその文を思わしむるものがあった。 わたしはしばしば家を移したが、その度ごとに梔子一株を携え運んで庭に植える。啻に花を・・・ 永井荷風 「十日の菊」
出典:青空文庫