・・・と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。「戦争だ。戦争だ。」――彼女はそう思いながら、一生懸命に走ろうとした。が、いくら気負って見ても、何故か一向走れなかった。………… お蓮は顔を洗ってしまうと、手水を・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・もっともニッケルの時計の蓋は正確に顔を映すはずはない。小さい円の中の彼の顔は全体に頗る朦朧とした上、鼻ばかり非常にひろがっている。幸いにそれでも彼の心は次第に落着きを取り戻しはじめた。同時にまた次第に粟野さんの好意を無にした気の毒さを感じは・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・白の姿を映しました。――はっきりと、鏡のように。白の姿を映すものはあの客待の自動車のように、到るところにある訣なのです。もしあれを見たとすれば、どんなに白は恐れるでしょう。それ、白の顔を御覧なさい。白は苦しそうに唸ったと思うと、たちまち公園・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・われ罵るらく、「悪魔よ、退け、わが心は DS が諸善万徳を映すの鏡なり。汝の影を止むべき所にあらず、」と。悪魔呵々大笑していわく、「愚なり、巴。汝がわれを唾罵する心は、これ即驕慢にして、七つの罪の第一よ。悪魔と人間の異らぬは、汝の実証を見て・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・ と蕈が映す影はないのに、女の瞼はほんのりする。 安値いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙がない。女が手を離すのと、笊を引手繰るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って行く。 私は腕組をして・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を擲つと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子を映す火の粉であった。 途端に十二時、鈴を打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦、早鐘。 早や廊下にも烟が入って、暗い中か・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ が、その影が映すと、半ば埋れた私の身体は、ぱっと紫陽花に包まれたように、青く、藍に、群青になりました。 この山の上なる峠の茶屋を思い出す――極暑、病気のため、俥で越えて、故郷へ帰る道すがら、その茶屋で休んだ時の事です。門も背戸も紫・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・もとより藁屑も綿片もあるのではないが、薄月が映すともなしに、ぼっと、その仔雀の身に添って、霞のような気が籠って、包んで円く明かったのは、親の情の朧気ならず、輪光を顕わした影であろう。「ちょっと。」「何さ。」手招ぎをして、「来て見なよ。」家内・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ ト突出た廂に額を打たれ、忍返の釘に眼を刺され、赫と血とともに総身が熱く、たちまち、罪ある蛇になって、攀上る石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、頭に映す太陽は、血の色して段に流れた。 宗吉はかくてまた明神の御手洗に、更に、氷に・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・赫と射る日に、手廂してこう視むれば、松、桜、梅いろいろ樹の状、枝の振の、各自名ある神仙の形を映すのみ。幸いに可忌い坊主の影は、公園の一木一草をも妨げず。また……人の往来うさえほとんどない。 一処、大池があって、朱塗の船の、漣に、浮いた汀・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
出典:青空文庫