・・・ 三 その夜の十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る火影を口惜しそうに見つめていました。「折角御嬢さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。一そ警察・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・慎太郎はその時まざまざと、今朝上りの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかに映るような気がした。それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目に会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映るか、それは想像も出来ない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤い憐れんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。私はお前たちの為めにそうあらんことを祈っている。・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪む、とあらず、歩を移すのは渠自身、すなわち立花であった。 茫然。 世に茫然という色があるなら、四辺の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・橋杭ももう痩せて――潮入りの小川の、なだらかにのんびりと薄墨色して、瀬は愚か、流れるほどは揺れもしないのに、水に映る影は弱って、倒に宿る蘆の葉とともに蹌踉する。 が、いかに朽ちたればといって、立樹の洞でないものを、橋杭に鳥は棲むまい。馬・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・木の葉の形も小鳥の形もはっきり映るようになると、きわめて落ちついた静かな趣になる。 省作はそのおもしろい光景にわれを忘れて見とれている。鎌をとぐ手はただ器械的に動いてるらしい。おはまは真に苦も荷もない声で小唄をうたいつつ台所に働いている・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・て改った挨拶などする、十になる児の母だけれど、町公町公と云ったのもまだつい此間の事のようで、其大人ぶった挨拶が可笑しい位だった、其内利助も朝草を山程刈って帰ってきた、さっぱりとした麻の葉の座蒲団を影の映るような、カラ縁に敷いて、えい心持った・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・侍女たちが手に手を取って投げる金銀の輝きと、お姫さまの赤い着物とが、さながら雲の舞うような、夕日に映る光景は、やはり陸の人々の目に見られたのです。「お姫さまの船が、海の中に沈んでしまったのだろうか。」と、陸では、みんなが騒ぎはじめました・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・水ぎわには昼でも淡く水蒸気が見えるが、そのくせ向河岸の屋根でも壁でも濃くはっきりと目に映る。どうしてももう秋も末だ、冬空に近い。私は袷の襟を堅く合せた。「ねえ君、二三日待ちなせえよ。きっと送るから。」と船に乗り移る間ぎわにも、銭占屋はそ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顔を、他人のものかのように放心した気持で見遣りながら、彼は延びた頭髪を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしていた。そして何を考えることも、何を怖れるというようなことも、出来ない程疲・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫