・・・――「三菱社員忍野半三郎氏は昨夕五時十五分、突然発狂したるが如く、常子夫人の止むるを聴かず、単身いずこにか失踪したり。同仁病院長山井博士の説によれば、忍野氏は昨夏脳溢血を患い、三日間人事不省なりしより、爾来多少精神に異常を呈せるものなら・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ 昨夕もよ、空腹を抱えて対岸のアレシキに行って見るとダビドカの野郎に遇った。懐をあたるとあるから貸せと云ったら渋ってけっかる。いまいましい、腕づくでもぎ取ってくれようとすると「オオ神様泥棒が」って、殉教者の様な真似をしやあがる。擦った揉・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・入院中流産なされ候御婦人は、いまは大方に快癒、鬱散のそとあるきも出来候との事、御安心下され度候趣、さて、ここに一昨夕、大夕立これあり、孫八老、其の砌某所墓地近くを通りかかり候折から、天地晦冥、雹の降ること凄まじく、且は電光の中に、清げなる婦・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・神崎工学士、君は昨夕酔払って春子様をつかまえてお得意の講義をしていたが忘れたか。」「ねエ朝田様! その時、神崎様が巻煙草の灰を掌にのせて、この灰が貴女には妙と見えませんかと聞くから、私は何でもないというと、だから貴女は駄目だ、凡そ宇宙の・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 然るに昨夕のこと富岡老人近頃病床にある由を聞いたから見舞に出かけた、もし機会が可かったら貴所の一条を持出す積りで。老人はなるほど床に就いていたが、意外なのは暫時く会ぬ中に全然元気が衰えたことである、元気が衰えたと云うよりか殆ど我が折れ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・人並よりよほど広い額に頭痛膏をべたべたと貼り塞いでいる。昨夕の干潟の烏のようである。「昨日来なんしたげなの。わしゃちょうど馬を換えに行っとりましての」と、手を休めて、「乗りなんせい。今度のもおとなしゅうがんすわいの」と言ったかと思う・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・在武術と説き、諸卿の素直なる御賛同を得たるも、教訓する者みずから率先して実行せざれば、あたら卓説も瓦礫に等しく意味無きものと相成るべく、老生もとより愚昧と雖も教えて責を負わざる無反省の教師にては無之、昨夕、老骨奮起一番して弓の道場を訪れ申候・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・苅谷氏に昨夕の礼をのべて船を下り安松へ上がる。岡崎賢七とか云う人と同室へ入れられ、宅へ端書したゝむ。時計を見ればまだ三時なり。しかし六時の急行に乗る積りなれば落付いて眠る間もなかるべしと漱石師などへ用もなき端書したゝむ。ラムネを取りにやりた・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ちょうど机の上に昨夕買って来た『新声』の卯花衣があったから、「雪チャン。これを御覧。綺麗な画があるよ」と云うたら返事はなくて悲しげに微笑した。「ドーモまだ孩児で……」と主婦が云った。この悲しげな微笑はいまだに忘れる事が出来ない。 またあ・・・ 寺田寅彦 「雪ちゃん」
・・・「今顔を洗っています、昨夕中央会堂の慈善音楽会とかに行って遅く帰ったものですから、つい寝坊をしましてね」「インフルエンザは?」「ええありがとう、もうさっぱり……」「何ともないんですか」「ええ風邪はとっくに癒りました」・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫