・・・陽気な陽気な時節ではあるがちょっとの間はしーんと静になって、庭の隅の柘榴の樹の周りに大きな熊蜂がぶーんと羽音をさせているのが耳に立った。 その三 色々な考えに小な心を今さら新に紛れさせながら、眼ばかりは見るものの当も無い・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・云わば恋の創痕の痂が時節到来して脱れたのだ。ハハハハ、大分いい工合に酒も廻った。いい、いい、酒はもうたくさんだ。」と云い終って主人は庭を見た。一陣の風はさっと起って籠洋燈の火を瞬きさせた。夜の涼しさは座敷に満ちた。・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・「きまったお客さんはおもに京橋時代からの店のお得意です」と新七も母に言って見せた。「時節が時節ですから、皆さんの来易いようにして、安く召上って頂く。定食が三円、それ以上はお望み次第ということにしています。そりゃ店のお得意とは限ってい・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・キザな言い方であるが、花ひらく時節が来なければ、それは、はっきり解明できないもののようにも思われる。 ことしの正月、十日頃、寒い風の吹いていた日に、「きょうだけは、家にいて下さらない?」 と家の者が私に言った。「なぜだ。」・・・ 太宰治 「父」
・・・ 散歩には此頃は好時節である。初夏の武蔵野は檪林、楢の林、その若葉が日に光って、下草の中にはボケやシドメが赤い花をちらちら見せて居る。林を縁取った畑には、もう丈高くなった麦が浪を打って、処々に白い波頭を靡かして居る。麦の畑でない処には、・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
山好きの友人から上高地行を勧められる度に、自動車が通じるようになったら行くつもりだといって遁げていた。その言質をいよいよ受け出さなければならない時節が到来した。昭和九年九月二十九日の早朝新宿駅中央線プラットフォームへ行って・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・そうかと思うと、また今の時節には少しどうかと心配されるような非戦論を滔々と述べ聞かすのであった。 同じ思想が、支那服を着ていてそうして栄養不良の漢学者に手を引かれてよぼよぼ出て来たのではどうしても理解が出来なかったのに、それが背広にオー・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・――その時節は必ず来る。無論それが終局ではない、人類のあらん限り新局面は開けてやまぬものである。しかしながら一刹那でも人類の歴史がこの詩的高調、このエクスタシーの刹那に達するを得ば、長い長い旅の辛苦も償われて余あるではないか。その時節は必ず・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 戦争中にも銀座千疋屋の店頭には時節に従って花のある盆栽が並べられた。また年末には夜店に梅の鉢物が並べられ、市中諸処の縁日にも必ず植木屋が出ていた。これを見て或人はわたしの説を駁して、現代の人が祖国の花木に対して冷淡になっているはずはな・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・如何に幸福な平和な冬籠の時節であったろう。気味悪い狐の事は、下女はじめ一家中の空想から消去って、夜晩く行く人の足音に、消魂しく吠え出す飼犬の声もなく、木枯の風が庭の大樹をゆする響に、伝通院の鐘の音はかすれて遠く聞える。しめやかなランプの光の・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫