・・・わたくしは旧習に晏如としている人たちに対する軽い羨望嫉妬をさえ感じないわけには行かなかった。 三月九日の火は、事によるとこの昔めいた坊主頭の年寄をも、廓と共に灰にしてしまったかも知れない。 栄子と共にその夜すみれの店で物を食べた踊子・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・わたくしは果してよくケーベル先生やハーン先生のように一生涯他郷に住み晏如としてその国の土になることができるであろうか。中途で帰りたくなりはしまいか。瀕死の境に至っておめおめ帰りたくなるような事が起るくらいならば、移住を思立つにも及ぶまい。ど・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・若し其が真の価値批判に於て高価なものであるなら、所謂現代が嘲笑する伝統に晏如として自信ある認定を与えながら、如何に喋々され、絶叫される傾向であっても、其が無価値ならば、最後の唯一人として否定し得る、其の定見が総ての点に欲しいのでございます。・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・道徳的には潔癖であるとさえ思い習わしていた自分が、汚穢に充ちた泥溝の内に晏如としてあった、という事実は、自分の人格に対する信頼を根本から揺り動かした。 腐敗はそれのみにとどまらなかった。私はいつのまにか愛の心を軽んじ侮るようになっていた・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫