・・・ 八九年前晩春の頃、同じこの境内で、小児が集って凧を揚げて遊んでいた――杢若は顱の大きい坊主頭で、誰よりも群を抜いて、のほんと脊が高いのに、その揚げる凧は糸を惜んで、一番低く、山の上、松の空、桐の梢とある中に、わずかに百日紅の枝とすれす・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳を持っていた。そしてその尨大な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・その後のある日にもまた自分が有毒のものを採って叱られたことを記憶しているが、三十余年前のかの晩春の一日は霞の奥の花のように楽しい面白かった情景として、春ごとの頭に浮んで来る。 幸田露伴 「野道」
・・・と、きょうは端午だ、やみまつり、などと私にはよく意味のわからぬようなことまでぶつぶつ呟いていたりする有様で、その日も、私が上野公園のれいの甘酒屋で、はらみ猫、葉桜、花吹雪、毛虫、そんな風物のかもし出す晩春のぬくぬくした爛熟の雰囲気をからだじ・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ そのとしの晩春に、私は、またまた移転しなければならなくなった。またもや警察に呼ばれそうになって、私は、逃げたのである。こんどのは、少し複雑な問題であった。田舎の長兄に、出鱈目な事を言ってやって、二箇月分の生活費を一度に送ってもらい、そ・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・また、弘化二年、三十四歳の晩春、毛筆の帽被を割りたる破片を机上に精密に配列し以て家屋の設計図を製し、之によりて自分の住宅を造らせた。けれども、この家屋設計だけには、わずかに盲人らしき手落があった。ひどい暑がりにて、その住居も、風通しのよき事・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・その後に晩春の雨が降る。この雨は多く南風を伴って来る。昨日の花、この為めに凋落し尽すという恨はあるが、何となく思を取集めて感じが深い。硝子窓の外は風雨吹暴れて、山吹の花の徒らに濡れたるなど、歌にでもしたいと思う。 躑躅は晩春の花というよ・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
何年頃であったか忘れてしまったが、先生の千駄木時代に、晩春のある日、一緒に音楽学校の演奏会に行った帰りに、上野の森をブラブラあるいて帰った。 その日の曲目の内に管弦楽で蛙の鳴声を真似するのがあった、それはよほど滑稽味を・・・ 寺田寅彦 「蛙の鳴声」
・・・ 一方でまたこの分泌には一年を週期とする季節的変化があって、その最高が晩春、最低が初秋のころにあると仮定する。それからまたその週期的な波の「平均水準」が人々によって色々違うのみならず、同一個人でも健康状態によりまた年齢により色々ちがうも・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・浅黒い顔の色の、妙に滑っこく磨き込まれている様子は、丁度多くの人手にかかって丁寧に拭き込まれた桐の手あぶりの光沢に等しく、いつも重そうな瞼の下に、夢を見ているようなその眼色には、照りもせず曇りも果てぬ晩春の空のいい知れぬ沈滞の味が宿っている・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫