・・・を除きさえすれば、いつも暗澹としている筈である。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。 民衆 シェクスピイアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・が、その感じから暗澹たる色彩を奪ったのは、ほとんど美しいとでも形容したい、光滑々たる先生の禿げ頭で、これまた後頭部のあたりに、種々たる胡麻塩の髪の毛が、わずかに残喘を保っていたが、大部分は博物の教科書に画が出ている駝鳥の卵なるものと相違はな・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・何か胸に痛いような薄暗さと思われた。前方に光が眩しく横に流れていて、戎橋筋だった。その光の流れはこちらへも向うの横丁へも流れて行かず、筧を流れる水がそのまま氷結してしまったように見えた。何か暗澹とした気持で、光を避けて引きかえしたが、また明・・・ 織田作之助 「雨」
・・・曇空には雲が暗澹と動いていた。そしてその下に堯は、まだ電燈も来ないある家の二階は、もう戸が鎖されてあるのを見た。戸の木肌はあらわに外面に向かって曝されていた。――ある感動で堯はそこに彳んだ。傍らには彼の棲んでいる部屋がある。堯はそれをこれま・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・う噂が耳にはいり、殊に青森地方は、ひどい被害のようで、青森県の交通全部がとまっているなどという誇大なことを真面目くさって言うひともあり、いつになったら津軽の果の故郷へたどり着く事が出来るやら、まったく暗澹たる気持でした。 福島を過ぎた頃・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・刺客だの、強盗だのと、殺伐残忍の話ばかり、少しく門構の大きい地位ある人の屋敷や、土蔵の厳めしい商家の縁の下からは、夜陰に主人の寝息を伺って、いつ脅迫暗殺の白刄が畳を貫いて閃き出るか計られぬと云うような暗澹極まる疑念が、何処となしに時代の空気・・・ 永井荷風 「狐」
・・・浅草橋も後になし須田町に来掛る程に雷光凄じく街上に閃きて雷鳴止まず雨には風も加りて乾坤いよいよ暗澹たりしが九段を上り半蔵門に至るに及んで空初めて晴る。虹中天に懸り宮溝の垂楊油よりも碧し。住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思うは偶然か・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・ 運命の命ずるままに引きずられて、しかも益々苦痛な、益々暗澹たる生活をさせられる我身を、我と我手で鱠切りにして大洋の滄い浪の中に投げて仕舞いたかった。 始めの間は、家、子供、妻と他人の事ばかり思って居た栄蔵は、終に、自分自身の事ばか・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・やがて若葉の裏を翻して暗く重く風が渡り、暗澹とした夕立空の前にクッキリ白い火見櫓が立ち、頂上のガラスを鈍く光らせたと思うと、パラリ、パラリ大粒なのが落ちて来た。自分は思わず心の内に舌うちをした。 ザーッ、ザッと鋪道を洗い、屋根にしぶいて・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・そして、憐れな魂は、暗澹たる故郷への郷愁と、懣怨と、一層深入りした我執との裡に転々して、呪を発するのでございます。彼等の最終の呪文は、我国古来の美風を忘れて、徒に浮薄な米国婦人等に其の範をとるのは杞うべき事、恥ずべき事である、と云うのに終り・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
出典:青空文庫