・・・婆さんも余から何か聞くのが怖しく、余は婆さんから何か聞くのが怖しいので御互にどうかしたかと問い掛けながら、その返答は両方とも云わずに双方とも暫時睨み合っている。「水が――水が垂れます」これは婆さんの注意である。なるほど充分に雨を含んだ外・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・この開攘の二家ははじめより元素を殊にする者なれば、理において決して抱合すべきに非ざれども、当時の事情紛紜に際し、幕府に敵するの目的をもって、暫時の間、異種の二元素、たがいに相投じたることあり。これを思えば、今の民権論者が不平を鳴らすその間に・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・これは暫時細君を交易することなり。 孔子様は世の風俗の衰うるを患て『春秋』を著し、夷狄だの中華だのと、やかましく人をほめたり、そしりたりせられしなれども、細君の交易はさまで心配にもならざりしや、そしらぬ顔にてこれをとがめず。我々どもの考・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
・・・因て成るべく端折って記せば暫時の御辛抱を願うになん。 凡そ形あれば茲に意あり。意は形に依って見われ形は意に依って存す。物の生存の上よりいわば、意あっての形形あっての意なれば、孰を重とし孰を軽ともしがたからん。されど其持前の上より・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・の職業の変遷を述べれば、官報局の翻訳係、陸軍大学の語学教師、海軍省の編輯書記、外国語学校の露語教師なぞという順序だが、今云った国際問題等に興味を有つに至って浦塩から満洲に入り、更に蒙古に入ろうとして、暫時警務学堂に奉職していた事なんぞがある・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
○この頃は痛さで身動きも出来ず煩悶の余り精神も常に穏やかならんので、毎日二、三服の痲痺剤を飲んで、それでようよう暫時の痲痺的愉快を取って居るような次第である。考え事などは少しも出来ず、新聞をよんでも頭脳が乱れて来るという始末で、書くこと・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ただ今から、暫時の間、そのご文の講釈を致す。みなの衆、ようく心を留めて聞かしゃれ。折角鳥に生れて来ても、ただ腹が空いた、取って食う、睡くなった、巣に入るではなんの所詮もないことじゃぞよ。それも鳥に生れてただやすやすと生きるというても、まこと・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・私は暫時であったがこの伯父から非常に愛された。沢山のバイブル物語をおそわった。小学一年生で、友達の告げ口をした時、つねられた。死の恐怖を知ったのはこの省吾伯父の没した時であった。 書簡註。この年、父が事務的な用向をもっ・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・第一の女法王様でございますわ――二人の女はだまって顔を見合わせる。暫時沈黙。うめく様に非番の老近侍に云う。第二の女 貴方……殿方でいらっしゃいますわ。 恐ろしい事にも度々お出会になった御方でございますわ。 私・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・ブルターニュの昔からの知人の家へ暫時息ぬきに出かけた。パリへかえってカシニ街にどうやら身を落付け、バルザックは再びペンをとりはじめた。負債と負債にからまって押しよせる一軍団の敵に立ち向うために、彼は只ペンの力だけが真に自分にのこされた最後の・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
出典:青空文庫