・・・ほんまに良い字を書くのは、むつかしいですわね。けど、お習字してますと、なんやこう、悩みや苦しみがみな忘れてしまえるみたい気イしますのんで、私好きです。貴方なんか、きっとお習字上手やと思いますわ。お上手なんでしょう? いっぺん見せていただきた・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・いや、書くことが何もないのだ。それに、実際物を書くべくいかに苦患な状態であるか――にもかかわらず、S君は毎日根気よくやってきては、袴の膝も崩さず居催促を続けているという光景である。アスピリンを飲み、大汗を絞って、ようよう四時過ぎごろに蒲団を・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・そして、時には手紙の三四通も書く事があり、又肩の凝らぬ読物もして居りました。 耳の敏い事は驚く程で、手紙や号外のはいった音は直ぐ聞きつけて取って呉れとか、広告がはいってもソレ手紙と云う調子です。兎に角お友達から来る手紙を待ちに待った様子・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 書く方を放棄してから一週間余りにもなっていただろうか。その間に自分の生活はまるで気力の抜けた平衡を失したものに変わっていた。先ほども言ったように失敗が既にどこか病気染みたところを持っていた。書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そう・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・馬の顔を斜に見た処で、無論少年の手には余る画題であるのを、自分はこの一挙に由て是非志村に打勝うという意気込だから一生懸命、学校から宅に帰ると一室に籠って書く、手本を本にして生意気にも実物の写生を試み、幸い自分の宅から一丁ばかり離れた桑園の中・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・行為そのものを描く。ときとしては末梢的些末事と取り組んで飽くことを知らない。人生を全体として把握し、生活の原理と法則とを求めるものは倫理学に行くべきだ。これは文芸に求めるのが筋ちがいだからだ。もとより倫理学は学としての約束上概念を媒介としな・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・短篇を書くならメリメのような短篇を書きたい、よく、そう思った。 ゴーゴリと、モリエール、は、あるときは、トルストイ以上に好きだった。喜劇を書いても、諷刺文学を書いても、それで、人をおかしがらせたり、面白がらせたりする意図で書くのでは、下・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・まして人間の指で書くような出鱈目の曲線は何千万状あるか知れるものではない。このくらい曲線という奴は洒落た奴だよ。だから二力が互に異りたる曲線的に来てぶつかる時は、又何千万様の変化を起すか知れないのサ。ここが即ちおもしろい所だ。ここから天地万・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・「そりゃ、『蓬屋』と書くよりも、『四方木屋』と書いたほうがおもしろいでしょう。いかにも山家らしくて。」 こんな話も旅らしかった。 甲府まで乗り、富士見まで乗って行くうちに、私たちは山の上に残っている激しい冬を感じて来た。下諏訪の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・出ようとする間ぎわに、藤さんはとんとんと離れへはいって行って、急いで一と筆さらさらと書く。母家で藤さんと呼ぶ。はいと言い言い、あらあらかしくと書きおさめて、硯の蓋を重しに置いて出て行く。――自分が藤さんなら、こんな時にはぜひとも何とか書き残・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫