・・・其の時分の書生のさまなぞ、今から考えると、幕府の当時と同様、可笑しい程主従の差別のついて居た事が、一挙一動思出される。 何事にも極く砕けて、優しい母上は田崎の様子を見て、「あぶないよ、お前。喰いつかれでもするといけないから、お止しな・・・ 永井荷風 「狐」
・・・昔私らの書生の頃には、人を訪問していなければ可いがと思うてもそういう事をその人の前に告白するような正直な実際的な事はしなかったものである。痩我慢をして実は堂々たるものの如く装って人の前にもこれを吹聴したのである。感激的教育概念に囚れたる薫化・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・門は開いているが玄関はまだ戸閉りがしてある。書生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る。清と云う下総生れの頬ペタの赤い下女が俎の上で糠味噌から出し立ての細根大根を切っている。「御早よう、何はどうだ」と聞くと驚いた顔をして、襷を半分はずしながら「・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・と、今一人の名山という花魁が言いかけて、顔を洗ッている自分の客の書生風の男の肩を押え、「お前さんも去らないで、夕方までおいでなさいよ」「僕か。僕はいかん。なア君」「そうじゃ。いずれまた今晩でも出直して来るんじゃ」「よござんすよ、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・あるいは白面の書生もあらん、あるいは血気の少年もあらん。その成行決して安心すべからず。万々一もこの二流抱合の萌を現わすことあらば、文明の却歩は識者をまたずして知るべし。これすなわち禍の大なるものなり。国の文明を進めんとしてかえってこれを妨ぐ・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
人物の善悪を定めんには我に極美なかるべからず。小説の是非を評せんには我に定義なかる可らず。されば今書生気質の批評をせんにも予め主人の小説本義を御風聴して置かねばならず。本義などという者は到底面白きものならねば読むお方にも・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・離筵となると最早唐人ではなくて、日本人の書生が友達を送る処に変った。剣舞を出しても見たが句にならぬ。とかくする内に「海楼に別れを惜む月夜かな」と出来た。これにしようと、きめても見た。しかし落ちつかぬ。平凡といえば平凡だ。海楼が利かぬと思えば・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・しかし私はその先生の書生というでもありません。けれども、しかしとにかくそう云いましょう。おい。行こう。さよなら。」 悪魔は娘の手をひいて、向うのどてのかげまで行くと片眼をつぶって云いました。「お前はこれで帰ってよし。そしてキャベジと・・・ 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」
・・・ときく。書生にも同じ事を聞く。 十二時すぎに、待ち兼ねて居たものが来た。 葉書の走り書きで、今日の午後に来ると云ってよこしたんで急に書斎でも飾って見る気になる。 机の引出しから私だけの「つやぶきん」を出して本棚や机をふい・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・予は心身共に健で、この新年の如く、多少の閑情雅趣を占め得たことは、かつて書生たり留学生たりし時代より以後には、ほとんど無い。我学友はあるいは台湾に往き、あるいは欧羅巴に遊ぶ途次、わざわざ門司から舟を下りて予を訪うてくれる。中にはまた酔興にも・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
出典:青空文庫