・・・ 道太は格別の興味も惹かなかったけれど、ある晩お絹と辰之助とで、ほとんど毎晩の癖になっている、夜ふけてからの涼みに出て、月光が蛇のように水面を這っている川端をぶらぶらあるいていると、ふとその劇場の前へ出た。お絹はそういうときの癖で、踊り・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・また我が党の士、幽窓の下におりて、秋夜月光に講究すること、旧日に異なることなきを得て、修心開知の道を楽しみ、私に済世の一斑を達するは、あにまた天与の自由を得るものといわざるべけんや。 然ばすなわち我が輩の所業、その形は世情と相反するに似・・・ 福沢諭吉 「中元祝酒の記」
・・・とくすること日々ある日また四老に会す、幽賞雅懐はじめのごとし、眼を閉じて苦吟し句を得て眼を開く、たちまち四老の所在を失す、しらずいずれのところに仙化して去るや、恍として一人みずから佇む時に花香風に和し月光水に浮ぶ、これ子が俳諧の郷なり・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 柏はざわめき、月光も青くすきとおり、大王も機嫌を直してふんふんと云いました。 若い木は胸をはってあたらしく歌いました。「うさぎのみみはながいけど うまのみみよりながくない。」「わあ、うまいうまい。ああはは、ああはは。」・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・ 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすずしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした。 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・西根の山山のへっぴり伯父は月光に青く光って長々とからだを横たえました。 宮沢賢治 「十月の末」
・・・家には平穏な寝息、戸外には夜露にぬれた耕地、光の霧のような月光、蛙の声がある。――眠りつかないうちに、「かすかに風が出て来たらしいな」私は、雨戸に何か触るカサカサという音を聞いた。「そう風だ、風以外の何であろうはずはないではないか、そして、・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・ 白山羊は、身震いするように体を動かし、後脚の蹄でトンと月光のこぼれて居る地面を蹴った。黒驢馬は令子の方へ向きかわって、順々に足を折り坐った。 気がつくと、其処とは反対の赤松の裏にも白山羊が出て居る。夜は十二時を過ぎた。 令子は・・・ 宮本百合子 「黒い驢馬と白い山羊」
・・・湿った芝生に抱かれた池の中で、一本の噴水が月光を散らしながら周囲の石と花とに戯れていた。それは穏かに庭で育った高価な家畜のような淑やかさをもっていた。また遠く入江を包んだ二本の岬は花園を抱いた黒い腕のように曲っていた。そうして、水平線は遙か・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ことにそのころがちょうど陰暦の十四、五日にでも当たっており、幸い晴れた晩があると、月光の下に楓の新緑の輝く光景を見ることができた。その光と色との微妙な交錯は、全く類のないものであった。 楓だけでもそれぐらいであるが、東山の落葉樹から見れ・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫