・・・窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落している。その中に鈍い物音が、間遠に低く聞えるのは、今でも海が鳴っているらしい。 房子はしばらく立ち続けていた。すると次第に不思議な感覚が、彼女の心に目ざめて来た。それは誰かが後にいて、じっとそ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人を豕にする女神の話だの、声の美しい人魚の話だの、――あなたはその男の名を知っていますか? その男は私に遇った時から、この国の土人に変りま・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・艙の外は見渡す限り、茫々とした月夜の水ばかりだ。その時の寂しさは話した所が、天下にわかるものは一人もあるまい。「それ以来僕の心の中では、始終あの女の事を思っている。するとまた金陵へ帰ってからも、不思議に毎晩眠りさえすれば、必ずあの家が夢・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・……あとで聞くと、月夜にこの小路へ入る、美しいお嬢さんの、湯帰りのあとをつけて、そして、何だよ、無理に、何、あの、何の真似だか知らないが、お嬢さんの舌をな。」 と、小母さんは白い顔して、ぺろりとその真紅な舌。 小僧は太い白蛇に、頭か・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を歩行きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」 と差俯向いた肩が震えた。 あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 毎夜、弁天橋へ最後の船を着けると、後へ引返してかの石碑の前を漕いで、蓬莱橋まで行ってその岸の松の木に纜っておいて上るのが例で、風雨の烈しい晩、休む時はさし措き、年月夜ごとにきっとである。 且つ仕舞船を漕ぎ戻すに当っては名代の信者、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・七 田端の月夜 三十六年、支那から帰朝すると間もなく脳貧血症を憂いて暫らく田端に静養していた。病気見舞を兼ねて久しぶりで尋ねると、思ったほどに衰れてもいなかったので、半日を閑談して夜るの九時頃となった。暇乞いして帰ろうとする・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ほんとうにその晩はいいお月夜で、青い波の上が輝きわたって、空は昼間のように明るくて、静かでありました。そして、その赤い船の甲板では、いい音楽の声がして、人々が楽しく打ち群れているのが見えました。」と語り聞かして、つばめは、またどこへか飛・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・空はいい月夜で、町の上を明るく昼間のように照らしていました。どこからともなく、口笛の声が起こりますとたちまちの間に、黒い鳥が、たくさん月をかすめて、四方から飛んできて、町の家々の屋根に止まりました。 町の人たちは、みんな外に出て、この黒・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ いい月夜でありました。二人は長い長い町を歩いてゆきました。だんだんゆくにつれて場末になるとみえて、町の中はさびしく、人通りも少なく、暗くなってきました。けれどもまだ宵のうちで、どこの家も起きています。 やっと二人は、その町はずれに・・・ 小川未明 「海ほおずき」
出典:青空文庫