・・・ 盛遠は徘徊を続けながら、再び、口を開かない。月明。どこかで今様を謡う声がする。 げに人間の心こそ、無明の闇も異らね、 ただ煩悩の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる。 下 夜、袈裟が帳台の外で、燈・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・ 青衫又た馬蹄の塵に汚る月明今夜消魂客。 月明るく 今夜 消魂の客昨日紅楼爛酔人。 昨日は紅楼に爛酔するの人年来多病感二前因一。 年来 多病にして前因を感じ旧恨纏綿夢不レ真。 旧恨 纏綿として夢真なら・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ そもそも享保のむかし服部南郭が一夜月明に隅田川を下り「金竜山畔江月浮」の名吟を世に残してより、明治に至るまで凡二百有余年、墨水の風月を愛してここに居を卜した文雅の士は勝げるに堪えない。しかしてそが最終の殿をなした者を誰かと問えば、それ・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・――明治四十四年八月明石において述―― 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・ 先ず最初に胸に浮んだ趣向は、月明の夜に森に沿うた小道の、一方は野が開いて居るという処を歩行いて居る処であった。写実写実と思うて居るのでこんな平凡な場所を描き出したのであろう。けれども景色が余り広いと写実に遠ざかるから今少し狭く細かく写・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・「その方はアツレキ三十一年七月一日夜、アフリカ、コンゴオの林中空地に於て、故なくして擅に出現、折柄月明によって歌舞、歓をなせる所の一群を恐怖散乱せしめたことは、しかとその通りにちがいないか。」「全くその通りです。」「よろしい。何・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・ 粤東盲妓という題の詩が幾篇もあって、なかに、亭々倩影照平湖 玉骨泳肌映繍繻斜倚竹欄頻問訊 月明曾上碧山無 魯迅の傷心の深さ、憤りの底は、云わばこういうところまでさぐり入って共感されなければならないものな・・・ 宮本百合子 「書簡箋」
・・・南方に八溝連山が鮮やかに月明に照されつつ時々稲妻を放つ。その何か奇異な深夜の天象を、花は白く満開のまま、一輪も散らさず、見守っている。―― この花ばかりではない。第一には若葉のひろがりにしてもそうだ。この山名物のつつじにしてもそうだ。北・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
出典:青空文庫